【From teacup.】この掲示板は投稿が一定期間無いため、各記事中に広告を表示しています。

 投稿者
 メール
  題名
  内容 入力補助動画検索画像・ファイル<IMG><OBJECT>タグが利用可能です。(詳細)
    
  ファイル1
  ファイル2
  ファイル3
アップロード可能な形式(各1MB以内):
画像(gif,png,jpg,bmp) 音楽(mmf,mld) 動画(amc,3gp,3g2)

 URL

全161件の内、新着の記事から1件ずつ表示します。 3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  |  《前のページ |  次のページ》 

蒼碧集第9集より

 投稿者:プリティピッグ  投稿日:2007年 6月29日(金)19時45分56秒
編集済
  折伏による大功徳!
ついに業病の進行ガンをも克服

 第五十一支区 田中 美佐子班長
(平成十七年・第二十七回総会より)

 皆さん、こんにちは。五十一支区の田中 美佐子です。
 私は、昭和四十年、創価学会を通じて日蓮正宗に入信しました。
 入信後、勤行・唱題に励む中で、御本尊様の功徳を体験した私は、「これはすごい!本物の宗教だ!」との確信を抱き、どんどん創価学会の活動にのめり込んでいきました。
 以来、私は、自分では日蓮大聖人の仏法を信じ、純真な信心を一所懸命しているつもりでしたが、創価学会が日蓮正宗とは異質な教えになっているなどとは、夢にも思いませんでした。

 そのため、公明党の選挙といえば、「一票取ることは一人折伏するのと同じ」という学会の指導を信じ、狂ったように頭を下げて歩きました。
 また、学会の間違った教学を振りかざして、多くの人達を入会させてしまいました。
ある時は、読売新聞や朝日新聞の編集局に電話し、「これほど立派な池田先生のことを、どうして日本のマスコミは大きく取り上げて報道しないのか!?」と、本気で抗議したこともあります。

 そんな状態でしたから、昭和五十二年に起きた第一次学会問題で、日蓮正宗御宗門が学会の誤りについて厳しく指弾(しだん)された時も、私は全く学会に疑いを抱くことなく、池田大作が引責辞任した時には大ショックで泣きました。
 要するに私は、模範的な池田教信者だったのです。

 しかし、このような狂った信仰をしていて、御本尊様から叱られないわけがありません。
 学会の活動をすればするほど、私の生活はどんどん悪化していきました。
 子供がスベリ台から落ちて、生死の境をさまよう程の大けがをしたり、警備会社に勤めて万引きGメンをしていた時には、つかまえた相手に襲われ、働くことすらできなくなる程の重傷を負わされたこともあります。

 その他にも、自分や家族に様々な災難や事故が降りかかってきましたが、私は、これが仏法に反している罰だとは気付きもしませんでした。

 しかし、そのような中で、登山した折、たまたま総本山の売店で、妙観講で発行している月刊誌『暁鐘』(ぎょうしょう)を購入し、それから定期購読を始めたことから、日蓮正宗信徒の正しい在り方を学べるようになったのです。これが後に、学会の誤りに気付いて脱会する基となりましたので、この時が、妙観講との緑の始まりだったのだと思います。

 その後、昭和六十年に現在の主人と出会い、折伏し、共に軽自動車運送事業の会社を立ち上げました。
 当時、流通の主流は大型トラックで、軽自動車運送という業種は世間で相手にしてもらえませんでしたので、ほとんど仕事の注文が入ってこない、本当に厳しい日々が続きました。
 私と主人は、自分達なりに唱題と折伏に励み、この苦境を打開しようとしましたが、学会流の信心ですから、さっぱりうまくいきません。

 そのうちに、平成二年頃でしょうか。聖教新聞を読んでいた主人が、突然「学会はおかしい」と言い出しました。会合に行っても、池田会長を礼賛(らいさん)する内容ばかりで、大御本尊様や総本山のことは全然出てこない、という状態に疑問を持ったのです。
 さらに、二十年来の友人である学会の大幹部が、「池田先生と日蓮大聖人の相似(そうじ)点を探している」と言うのを聞いて、私も「これは変だ」と思いました。
 学会で集金に回ってくる広布基金も、総本山のために使われるのではなく、「池田先生に自由に使っていただくためのお金だ」と聞き、キッパリお断わりしました。
 そういう判断ができたのは、毎月送っていただいていた『暁鐘』を読んで、正しい信心の在り方を学んでいたからです。

 こうして私達は、まったく学会の活動に参加しなくなりましたが、すると、不思議にも仕事の注文が増え始めたのです。
 その間、平成三年十一月には創価学会が日蓮正宗より破門され、平成四年八月には池田大作が日蓮正宗より信徒除名処分となりました。

 私達はこれを見て、やはり学会は間違っていたのだ、と確信し、平成五年に入り、自主的に脱会して地元の末寺に移籍いたしました。
 それからは、「学会時代に作ってしまった謗法の罪障を洗い流したい、今度こそ正しい信心をもって御奉公させていただきたい」 との一心で、毎日一時間の唱題と、学会員に対する折伏に励みました。有り難いことに、それと並行して、会社の業績はぐんぐん上がっていったのです。

  一方、そのようにして折伏をどんどん進めていく私の在り方は、やはり成り立ちの因縁が違うためか、所属した末寺講中の中で次第に浮き上がり、さまざまな波風が起きてきました。
 その中で苦しむ私を見て、よほど可哀相(かわいそう)に思われたのでしょう、副御住職様より、「そんなに折伏がしたいのなら、妙観講へ移りませんか」とのお話があり、平成十五年の二月、異例な形で、妙観講へ移籍させていただいたのです。

 そして、妙観講へ入って驚きました。いわゆる怨嫉というものが全然ないのです。真に異体同心で前進していることが感じられ、本当に感激しました。
 もとより私にとって、妙観講は憧れでした。総本山を全力で外護申し上げ、信心と折伏の指導は日本一の講中です。

 それまでの末寺での折伏で、苦しい時、辛い時、恐ろしい時は、同志と共に 「こんな時、妙観講ならどうするんだろう?妙観講なら絶対に逃げないよね!」と互いに励ましあい、語りあってきたのです。その妙観講へ入講できたのですから、しっかりと折伏に励まなければ申し訳ありません。

  入講以来、毎月のお登山に、折伏にと、東川部長を始め先輩方に連れて歩いて戴き、仏道修行に励む中、急速に会社に変化が現れました。銀行からの借り入れがどんどん有利な方向に変わってしまい、昨年の一月には、考えてもみなかった自社の社屋が完成しました。
  二十年前、電話一本とトラック一台からスタートした小さな事業が、現在は資本金一千万円の株式会社になり、年間売上も2億円を数え、取引先は一流企業が占め、安定した業績を上げています。広い自宅も購入し、近くの工業団地に土地も所有するに至りました。本当にたくさんの功徳を、物心両面に渡って御本尊様より頂戴したのです。

 その大功徳から見れば、まだまだ御報恩の折伏が足りません。そう思って、今まで何百軒となく学会員宅の折伏に歩かせて戴きましたが、ひどい暮らしのお宅や、そのみじめな家族を見る度に、心の底から学会に対する怒りが込み上げてきました。

 世界中の学会員を洗脳し、猊下様への攻撃と三宝破壊という大謗法を犯させて罪障を積ませ、地獄に堕としているのです。「許せない。私は、創価学会と池田大作を始め学会幹部を、絶対に許さない!」と、何百回も自分に言い聞かせてきました。騙(だま)される方も悪いとはいえ、頭破七分した学会員が気の毒で、何度も悔し涙を流してきました。不幸のどん底にあえいでいる学会員を、一日も早く日蓮正宗に帰伏させて、正しい信心をさせてあげたいのです。

 そうした強い思いで折伏を続ける中で、帰伏する学会員が増えてきました。
昨年帰伏したTさんは、数年前に創価学会に入会した方ですが、折伏を行なった私に、学会員の教唆(きょうさ)によって『御本尊泥棒』という濡れ衣を掛けてきて、その証言を利用して学会の弁護士二名が私を警察署に告発したという、いきさつのある人でした。幸いこちらの弁護士が学会問題に慣れていたということと、担当の刑事・検事が公平な方だったので、不起訴となって終わりました。
 しかし、その後、私が何度もTさん宅へ足を運び、折伏をしていく中で、現証が出始めました。
 Tさんは、息子さんと二番目の弟さんに自殺をされ、生活上にもいろいろなことが起きてきて、「これが田中さんの言っていた罰なんだ」と気が付き、本山へ行きたいと言い出されました。そして、「都内に住む九十九歳の母と弟を折伏して欲しい」と言われましたので、さっそく翌日、二人を訪ねて折伏し、信心させることができました。

 この田中さんに限らず、帰伏した方々は皆、学会の邪義に気付き、日蓮正宗に帰ってきておられ、本日も皆でこの総会に参加しています。
 このように、学会の邪義を真っ向から破折せよ、との講中の方針に従い、折伏に励んでくる中で、ついに、長年の学会時代の謗法の罪障が絞り出された、と思われる体験をしました。
 といいますのは、今年の三月末、私は、いやいや六十歳の定期検診を受けたのですが、自分では何の自覚症状も無かったのに、たまたま肺に影があるのが発見され、肺ガンの三期と診断されました。四期が末期ですから、すでにガン細胞は三センチという大きさにまで育っており、リンパ節にも二つの転移が見つかりました。あとから聞いたのですが、肺ガンの三期といえば、もう完全に手遅れで、ほとんど助からないそうです。

 肺ガンと聞かされた瞬間に、「罪障消滅は折伏でするしかない!」との、日頃の大草講頭のご指導が頭に浮かびました。そして、「しめた!肺ガンならば勝てる」と思いました。食道ガンや咽(のど)のガンと違い、食べられて話せて、歩ければ折伏ができます。だったら恐れずに、今こそ折伏に突き進めば良い、と思ったのです。

 その日から私の祈りが変わりました。「御本尊様、この命をガンなどで失わせないでください。折伏ゆえの法難であるならば、打たれ、刺され、たとえ血みどろになっても、喜んで命は捧げます。せめて、この命を長らえ、創価学会のどてっ腹に風穴を開けるためのお手伝いを、何としても大草講頭の元でさせてください」と御本尊様にひれ伏し、泣きながら勤行・唱題をさせていただきました。

 そして五月八日の夜、私は、本山より当病平癒(とうびょうへいゆ)のための御秘符(ごひふ)を頂戴し、東川部長をはじめ主人、和地班長ご夫妻の唱題の中、心中で唱題しながら服させて戴きました。
  部長からは「『御秘符』は薬ではありません。猊下様が不自惜身命(ふじしゃくしんみょう)のお立場から御祈念くださるのです。お取り扱いは御本尊様と同じですよ」とのご指導をいただきました。「もったいなくも自分ごとき者の体内に御本尊様が…」と、主人共々涙が止まりませんでした。

 その後、すべての検査が終わって六月十七日、国立ガンセンターへ入院となりました。治療は、すでに手術ができる段階ではないため、抗ガン剤を2クールと放射線治療を三十回行なうことに決まりました。

 しかし、この治療とて、後からわかったのですが、単なる気休めのようなものであり、それでガンが良くなる人はほとんどいない、というのが現実だったのです。
 ともあれ、こうして入院治療が始まりましたが、一口に言って入院生活はとても快適でした。不思議なことに、抗ガン剤が身体に入っても、放射線を毎日照射(しょうしゃ)されても、一切の副作用が出てきません。
それどころか、食欲がありすぎて、病院の食事が待ち遠しくて困るほどでした。

 通常、治療中は副作用によって激しいおう吐(と)を繰り返し、放射線が食道内部を焼くのでやけどの状態になり、水も飲み込みづらくなります。しかし、私の場合は、吐き気もなければ、食道内部のやけど状態すら起きなかったのです。だから、飲食にも全く差し支えがありませんでした。

 また抗ガン剤を投与すると、普通は、白血球の数値が著しく下がって、抵抗力も無くなります。白血球が減ると感染の恐れがあるため、週末の外泊どころか外出もままならないのですが、私は入院中、全く白血球が減らず、毎週末に外泊を許されていました。許可が出る前に当然のように外泊の準備をしている私を、主治医も看護師さんも、なかば呆れたように見ていました。

 そして、外泊許可を取って、月例御講も夏期講習会も参加させて戴き、さらに折伏と総会結集のために動き廻らせて戴くことができました。
 なぜ末期に近い自分の身体がこれ程までに軽いのか?答えは判っていますから、病院の中でも「障魔よ来たれ、敵来たれ…」と獅子吼の歌を口ずさみながら、下種する相手を捜し廻って歩きました。

 同じ階の患者さんから、「なんでTさんばかり吐き気も無く、髪の毛も抜けないの?食欲もあるし、不公平だよ!」と言われたり、また 「Tさんの側に居るとパワーがもらえるから、みんなTさんの脇に集まりな〜」 とまわりに呼び掛ける人までいて、私は集まって来る人たちに、ここぞとばかりに、学会の極悪非道を話します。

 その中で、黙って下を向いてしまうのが学会員だと当たりがついてきて (笑い)、その人が一人でいる時に 「そんな不幸な顔をして、もしかしたら学会員じゃないの?」と折伏を始めます(笑い)。

 とにかく病院の中では、重いガンであるのに健康でいられる、という、この自分の身体こそ実証であり、折伏の武器なのです。 そうした折伏の結果、舌ガンの方が帰伏することができました。(拍手)

 又、時を同じくして、長い間、行方不明であった学会時代の知人から連絡が入り、こちらも折伏し、帰伏に至りました。

 幸い御本尊様のお供をしての入院でしたから、朝晩の勤行は御本尊様の御前にてさせて戴き、外泊しては折伏に廻り続けました。

 七月二十日、何度目かの外泊時のことですが、つくば市の学会大幹部を折伏したところ、ちょうど肺のあたりを強く突き飛ばされました。このとき私は、「これで告知されてから三人の学会員に、肺のあたりを突き飛ばされた。罪障消滅も進んだに違いない!」と確信しました。

 そして、その四日後の七月二十四日、まだ放射線治療が五回残っている段階でしたが、主治医からレントゲン写真を見せられて、「肺にあった三センチのガンは跡形もなく消えています」と告げられたのです。(拍手)

 「御本尊様ありがとうございました。」と、それ以外、何も頭に浮かびませんでした。そして、八月二日にさらに詳しく検査をしたのですが、その結果、リンパ節にあった二つのガンも見事に消えていたのです。

 この、治る見込みのないガンが完全に消滅してしまう、という現証には、医師も首をかしげ、「とりあえず退院してもらって、その後、どうしても、もう一度検査したい」と言って、八月十日に再度、造影剤を入れて徹底的に検査しましたが、やはりガンは全く消えてしまっていました。

 私がガンの告知を受けて以来、東川部長をはじめ他の班長・班員さん達が、丑寅の時刻に勤行をしてくださいました。また、「田中を助けるためには一丸となって折伏していくしかないのだ!」と、固い決意をして、共に動いてくださいました。この場を借りてガンを克服した御報告と御礼を申し上げます。本当にありがとうございました。
 思えば入信以来、御本尊様より数々の功徳を戴いてまいりました。日頃から「御報恩の折伏を」等と言っている自分ですが、今こそ御報恩の折伏に奮い立たねば、不知恩となります。

 昨年の総会において、大草講頭は、「御法主上人猊下への御報恩と御健勝(ごけんしょう)を祈り、我々が猊下にお応えする道は、大謗法の池田創価学会を徹底的に折伏し、その野望を打ち砕くことのみである」と発表されましたが、その御指導を、今こそ、実践するのだ、と強く決意しております。

 そして、幹部であろうと池田教の狂信者であろうと、徹底して折伏し抜いていこうと、古い学会員名簿の洗い直しや、公明党の看板のチェック等を続けているところであります。
 今年は池田創価学会が御宗門より破門されて二度目の七年にあたります。一日も早く学会を崩壊させるべく、まだまだ未熟な自分ではありますが、『悪は多けれど一善に勝つことなし』との御金言をしっかりと心肝に染め、御法主日顕上人貌下の御指南に従い、妙観講の一員として、破邪顕正のために悔いなき闘いをしてまいります。
 皆様、よろしくお願いいたします。(大拍手)

田中美佐子さんの事

第五十一支区 東川 浩部長
 平成十九年二月二十七日、田中美佐子さんがお亡くなりになりました。平成十五年二月にTさんが妙観講に入講して以来、四年間にわたり、最も間近で一緒に信仰をしてきた同志として、それまでの経過と、御本尊様の厳然たる大功徳についてご報告させていただきます。

 田中さんは平成十七年八月の第二十七回総会において、ほぼ末期の肺ガンを消滅させた体験を発表し、参加者全員に大きな感激を与えました。田中さんの凄(すさ)まじい折伏の道念・徹底した折伏の実践により、奇跡的な御本尊様の御加護が現われたことに、多くの講員さんが奮起し、発心を新たにしました。

 こうして田中さんは、一旦はガンが消え、命を長らえる、という功徳を頂戴したのですが、その後、再びガンに侵されるところとなったのです。私は愚(おろか)にして、それを知らずにいたのですが、徐々に田中さんの体力は衰え始め、平成十八年の後半からは、私の目から見ても衰えが明らかでした。

 平成十九年一月後半、田中さんの病状と信仰を心配された佐々木支部長が、家庭指導に行ってくださいました。田中さんは、支部長の慈悲溢れる指導に感激して、涙し、「これまで自分は怨嫉(おんしつ)などの謗法をくり返してきてしまいましたが、今はただただ自分の信仰を懺悔(ざんげ)して、過去からの罪障が消滅できるよう、御祈念していきます」と答えていました。

 しかし、二月に入って、私が仕事で奈良に出張していた際、田中さんの娘さんから電話が入りました。「じつは母はガンで、すでにリンパ節にも転移しています。医師から余命は僅かであり、二月下旬から三月上旬であろう、と宣告されています。母は東川部長に会いたがっています。会いに来てもらえないでしょうか?」 との悲痛な訴えでした。無念なことですが、この時、私は初めて田中さんの病状を知りました。

 田中さんは総会の体験発表において、自ら「学会時代に作ってしまった謗法の罪障を洗い流したい」と語っていましたが、やはり学会時代に刻んできた罪障は軽くはなかったのでしょう。

 出張から戻った私は、田中さんから申請のあった御秘符を携え、田中さん宅を訪問しました。そして、家族の方々と共に読経・唱題し、謹んで御秘符を服させていただきました。

 その後、田中さんは、「御秘符のおかげで身体の痛みがかなり楽になってきました」とにこやかに語っていました。

 翌二月二十七日の午後四時すぎ、再度、田中さんの娘さんから電話が入りました。Tさんが危ない状態となり、家族を皆集めるようにと、病院から指示があった」とのことでした。私はすぐ講頭に連絡し状況を報告すると、「田中さんの耳元でゆっくりと唱題するように」と指導いただきました。

 私が午後七時頃に病院に到着しますと、田中さんは酸素吸入器を付けており、深い呼吸をしながら眠っていました。すでに田中さんのご主人、お子さん、お孫さんの多くが集まって、必死で唱題をしていました。

 御守御本尊に向かい、家族と共に皆で真剣に唱題を始めました。午後八時半すぎ、徐々に呼吸が浅くなってきたことに私が気付き、医師を呼んでもらいました。皆で唱題を続ける中、午後八時四十二分、田中さんは静かに息を引き取られました。その臨終は、何の痛みも苦しみも感じていないかのように、静かに訪れました。心電図の表示がなければ誰も気付くことのないような、安らかな臨終でした。

 私は、田中さんの死という現実に直面し、五十一支区の宝を失くしたようで涙が止まらず、ただただ唱題し成仏を願うのみでした。

  三月一日通夜、三月二日告別式には、ありがたいことに法務極めて御繁多(はんた)な中、小川御住職御自ら、葬儀に茨城県土浦市まで、おいでいただくことができました。告別式にはたいへんお忙しい中、大草講頭も参列してくださいました。

 また、生前に田中さんと折伏で交流のあった青森市専妙寺御住職・沼田御尊師には、Tさんが亡くなった翌朝の勤行と、告別式の時間に合わせて、ありがたくも御塔婆を建立し追善回向の御祈念をしてくださいました。

 果たして、田中さんの遺体の相は、誰もが驚くような、たいへんきれいな姿でした。生前交流のあった土浦市の本妙寺支部の講員さんも数多く弔問されましたが、真っ白で眠っているかのような安らかな相と、念珠をかけた手もフニャフニャで死後硬直のまったくない、その遺体の柔らかさに驚いていました。

 私はこれまで、出棺までの間、皆で唱題していく中、いっそう善相になっていくという
例を何度も見たことがありますが、田中さんは臨終から一貫して、きれいな成仏の相を示していました。まさに御金言にお示しの
 「善人は設ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる。又軽き事鵞毛(がもう)の如し、軟らかなる事兜羅綿(とろめん)の如し」 (御書一二九〇ページ)
 「死すれば光を放つ、是外用(げゆう)の成仏と申す」 (御書一〇九ページ)」
の仰せのとおりでした。

  小川御住職からは「きれいな相でしたね」とのお言葉を頂戴し、さらには「田中さんは、一生懸命に折伏をしていたから」との理由で「広説院妙美大姉」という大姉号を頂戴いたしました。
生前交流が深かった地元の和地班長は、最後、お別れの際に、田中さんの首の周りを幾度も触っていました。リンパ節のガンのため、首のあたりに数珠状に大きな腫瘍がいくつも発生して、ボコボコになっていた筈が、きれいに消滅してしまっていたそうです。

 今回の田中さんの臨終に関して、私は、とくに次の三点を痛感しました。
まず第一点目として、「田中さんは結果的に亡くなられたが、肺ガンの末期状態から、いったん病気を克服して、延命することができた。命の長さは業によって定まっているけれども、その死すべき命を長らえて二ヶ年も延命することができたのは、御本尊の大功徳であると知らなければならない」ということ。

 さらに第二点目として、「リンパ節の腫瘍が消えてなくなってしまったことからも、ガンという業病自体は克服できた。しかし、克服したとしても、すでに肉体が修復不能なまでに損傷してしまっていれば、もはや、死ぬという形をとって、新しい健康な体を得るしかない。臨終の相が成仏の相であったということからも、Tさんは業病を仏法の功徳で克服しており、また元気な体をもって生まれてくることが明らかである」ということ。

 最後に第三点目として、「さらに言うならば、前々からの信仰の仕方によっては、さらに命を長らえることができたであろう」ということ。この点につきましては、私自身、支区部長としての信仰と責任の上から深く反省・懺悔しなければならない点です。私が、もっと適切・的確に田中さんの手を引いて上げられていたら、田中さんは、さらに功徳を積み、延命できていたかもしれません。
 私達は、大切な講員さんの命と成仏を預かっているのだ、という事実を重く受け止め、今後の育成について、厳格に取り組んでいくことを誓うものです。

 田中さんが妙観講に入講して以来、四ヶ年に渡って、活動を共にし、その臨終までの間に、私は多くのことを田中さんから教えてもらったように思います。今後は、田中さんが心から願っていた学会の折伏においても、田中さんの分まで精いっぱい励み、その功徳を回向できるように頑張ってまいります。
 


以上は、新着順7番目から7番目までの記事です。 3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  |  《前のページ |  次のページ》 
/161 


[PR]