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体験発表

 投稿者:T424  投稿日:2006年 5月28日(日)22時34分36秒
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  秋田布教区広布推進会(平成18年2月19日)での体験発表です。入信以来の、両親への折伏の内容です。
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 体験発表
    妙華寺支部 松本雄太

 皆様、広布推進会参加、ご苦労様です。本日は、体験発表の場を頂き、誠に拙いものではありますが、私の両親が入信するまでの体験をお話します。それにはかなり遡りますが、私の入信から話を始めたいと思います。

 20歳で漫画家を目指し上京した私は、当時創価学会員であった友人から折伏を受けました。幸いだったのは、学会教義ではなく日蓮正宗のお話を聞けたことです。
 平成2年11月18日、21歳のとき、東京杉並区の仏乗寺様にて御受戒を受けました。私はそのことを誰にも言いませんでしたが、ある日、両親がアパートに来たのです。母は、部屋の片隅のお厨子と鶴丸の仏具を見て、
「これが何だか分かっているのか、返してきなさい!」
と言い始めました。当然といえば当然で、地元の親族には創価学会員がおり、また、父母の職場にも同様にいました。そして、それらの人々は金銭・家庭・仕事面・男女関係等それぞれに問題を起こしていました。また、私は一人息子で跡取りです。代々の宗教がありながら、しかも相談もなく…なぜ?!と聞かれ、返す言葉がありません。それでも日蓮正宗が正しければ、自分が思い悩んできた、生きることへの空しさや死への恐怖がなくなるかも知れないというかすかな希望がありました。やっとのことで、
「せっかく自分の意志で始めたことだから、もう少し続けさせてくれないか?」
とだけ、頼みました。両親は渋々承知してくれました。

 平成3年、私はこの年、創価学会を抜け、法華講へと迎えていただきました。
 両親に、脱会しお寺についたことを話すと、「良かった」と喜んでくれました。学会を辞めたこと、また、お寺という言葉が、日蓮正宗を少し身近なものに感じさせたのでしょう。両親だけではなく、学会以外の親族も話を聞くなり「あ〜、それは良かった」と口々に言ったそうです。

 そのうち、私にも自分の進路を具体的に考える時がやって来ました。秋田に帰り、絵が好きだった私は当時の秋田市立美術工芸専門学校でデザインを学ぶことに決めました。こうして平成4年春、私は移籍という形でこの妙華寺に迎えていただくことになりました。
 この機会に、より深くこの信心を学ぼうと思い、出られる行事には全て出席しようと決めました。この頃は、各地の末寺で法華講支部の結成が盛んに行われ、青年部の私は、まず信心に身体を動かすことを学びました。そして青年というだけで、先輩方にもいろいろと面倒を見ていただきました。そこには、かつて自分が渇望しながら得られなかった、家庭の温かさがあり、何としても、自分の家庭がこうなって欲しい、と思いました。家族の名誉のために言えば、決して両親が冷たかったわけではありませんが、私を含めて、お互いに思い通りに行かない愚痴の心を抱え、ぶつかってみたり、あるいは避けてみたりを繰り返し苦しんでいたように思います。

 あるとき、私の父方の祖母が母と一緒に私のアパートに来て泊まりました。私が夕の勤行を始めると、祖母は私の後ろに来て、驚いたことに御経本もなしに、方便品・寿量品を一緒に読み始めました。「私も昔やっていたよ」と言います。あとで母から聞くと、私が二歳のときに亡くなった祖父と一緒に、一時期だけ学会で信心したらしいのですが、祖父の死後、家族や親族の大反対に遭い、御本尊様も手放してしまったそうです。祖母は、言うことを聞くだけで、何も言わない人でした。そんな祖母が秋田への訪問から2ヵ月後に亡くなりました。喪主は父であり、浄土真宗の葬儀が執り行われました。私が出来るのは、お塔婆供養をすることと、お題目をあげることだけでした。
 盂蘭盆御書に「目連尊者が法華経を信じまいらせし大善は、我が身仏になるのみならず、父母仏になり給ふ。上七代下七代、上無量生下無量生の父母等存外に仏となり給ふ。」とあります。この御金言の通りの功徳を以って、祖父母に報い、両親を折伏したいと思い、まず私自身が不退転の信心をしようと決心しました。私はその後、妙華寺支部・副青年部長の責をいただき、連絡や家庭訪問などもするようになりました。元々、どうしようもない引っ込み思案の私でしたが、お世話になった壮年・婦人の皆さんの信心をぜひ若い人に継いでいって欲しいとの思いを勇気に代えました。それでも弱気になったときは、先輩方が力強く励ましてくれました。

 しかし、私の思いとは裏腹に、活動をすればするほど、両親の態度は頑なになりました。「せっかく脱会したのに、これでは学会と同じではないか、いや、学会のとき以上に夢中になっている」と、心配したようです。父は、代々の宗教を変える気はなく、話のたびに席を立ったり、ときには、「家の宗教を継がないなら出て行け」などと言う事もありました。母は、話は聞いてくれるものの、「他宗のことを邪教扱いするのは良くない。」「この信心が良いのはわかったが、日蓮正宗だけが正しいとは思えない。」と言い張り、話が進みません。しかし、何とか理解しようと耳を傾けてくれたのも母でした。私は、両親が入信してからも嘘偽りの無いように、安易な勧誘を戒め、一貫して折伏に努めました。「親子の縁を切る」と言われたなら、本当に縁を切られる心の準備をしようと思いました。この信心にはそれほどの重さがあると感じていたからです。しかし、縁が切れても親子は親子、私が折伏しなければ誰がするのか、と何度も自分に言い聞かせました。

 平成9年9月、私は体調を崩したのがきっかけで、秋田で3年半勤めた会社を辞め、大館市の実家へ帰りました。しかし、妙華寺の青年部活動をこのままにしては、悔いが残ります。何とか続けたいと思った私は戸高御住職にお話しして、行事や活動予定日には、大館から片道2時間を通うという生活を続けました。実家に帰ってからは、信心が原因で何度も喧嘩をしましたが、両親は、何があっても私にこの信心を止めさせることは出来ないとわかり、なおかつこの信心があるおかげで私が前向きに生きるようになったと感じて、少し考えが変わったようです。

 平成10年の客殿落慶法要・10万総登山は仕事がないまま迎えることとなってしまいましたが、さらにその後一年、私は全く仕事には就けませんでした。それは私の仕事の探し方が問題でした。信心活動のために仕事を選んでいたのですが、不景気の折、そんなことでは働けるはずがありません。
 今思えば、私はこのとき、2つの慢心を起こしていたと思います。1つは、信心をしようとしない両親の言うことが、正しいにも拘らず素直に聞けないのです。もう1つは、御本尊様が示してくださることを素直に受け止めず、ただ自分の思いだけで物事を進めるような傾向があったことです。これでは御本尊様を拝みながら自分の心を拝んでいるようなものです。そのためか、就職はしたものの、その結果は惨々たるものでした。余りに長くなるので割愛しますが、その問題が一段落した後、両親に妙華寺まで送ってもらい、戸高御住職にも厳しく御指導をいただきました。私の父母について「素晴らしいご両親じゃないか」とのお言葉に私は顔を上げることが出来ませんでした。菊地講頭からも「親孝行しろ」と言われ、涙が止まりませんでした。

 その後は両親の勧めるままに、大館市の老人ホームでのボランティアをし、介護の現場を学びました。私が介護の仕事に就いて安定することは両親の願いでした。
 ある日、両親が、青森県八戸市の老人ホームの求人の話を持って来ました。両親の知り合いの方がそこの関係者であったため聞いてもらったところ、ちょうど男性職員を一人募集中だ、とのことで入社試験を受けるように勧められました。悩みましたが、今まで、自分の我を通したことは全て失敗してきました。それならば、せめて今度は親孝行をしよう、と入社試験を受けました。結果、採用され、私は晴れて八戸市に就職が決まりました。それにしても、また秋田からは遠くなってしまいます。何とか青年部の活動に差し障りが無いよう、青年部の仲間や、支部の皆さんにお願いするしかありませんでした。八戸から秋田までは、高速を使っても片道約4時間です。簡単に通うことも出来ません。
 平成14年の30万総登山・奉安堂落慶法要には、八戸から合流しました。

 しかし素晴らしい登山の思い出とは裏腹に、私は両親のことが気がかりでした。私の就職以来、家の中は良い雰囲気になっていましたが、意外と信心について話すきっかけがなく、たまに話しても、以前と変わらない反応にガックリしたりしました。ふと考えたのですが、両親が信心しないまま亡くなったら、私は将来、そのことを子供に何と言うでしょう。「お前のおじいさん、おばあさんは信仰に理解があって、また世間的にも素晴らしい人だったよ。でも、最後までついにこの信心をしなかったんだ」などと言うのでしょうか?それだけは嫌です。何とか大聖人様がおっしゃるところの一番の親孝行を果たしたい!それを考えると居ても立ってもいられなくなり、唱題を始めました。夜も眠れません。心を落ち着けるためにはただ1時間、2時間と、唱題を重ねるだけでした。

 そんな中、八戸に来てちょうど二年目の頃、私はひどいカゼで寝込んでしまい、あまりの苦しさに両親に電話で助けを求めました。起きることも出来ない私に見かねた母が、何か悩みでもあるのか、今一番望んでいることは何だ、と聞くので、私は「家族がこの信心で一つになることだ」と答えました。思うに、そのとき初めて素直に私の気持ちが伝わった気がしました。父も前向きに動くことを考えてくれたようです。このときから今まで動かなかったものが大きく動き出しました。母は、祖父母が信心していたことに触れ、「私たちは、日蓮正宗の信心に変わるのではなく、日蓮正宗に戻るのかも知れないね」と父に言ったそうです。

 その年の6月に、私は念願の仏壇を求め、御本尊様に御供養することが出来ました。このとき、両親が、自分たちもこれから信心するという前提で、資金を少し補助してくれました。この仏壇の御遷座式には、戸高御住職に遠路お出で頂き、また両親にも同席してもらうことが出来ました。
 さらに、父は自ら進んで、親族に我が家が日蓮正宗に改宗する、ということを話してくれました。最初に話したとおり、うちは跡取りなので、これは冠婚葬祭を日蓮正宗でやるという意味になります。それでも、今までどおりお墓を見てくれるのなら別に構わないとのことで反対はされませんでした。むしろ、「家族は同じ信心で一つがいいよ」「雄太君もそのほうが幸せだ」と、言われたそうです。
 こうして、平成16年9月28日、悲願であった両親の御受戒を妙華寺でしていただくことが出来ました。普段の参詣に所属寺院の妙華寺は遠いため、大館市の法種院様でお世話になっています。そして、3ヵ月後の12月28日にはついに、御本尊送りをしていただくことが出来ました。私が初めて御受戒を受けてからは14年、法華講に移ってから13年もの時が流れていました。

 昨年6月29日には初めて家族そろって夏期講習会登山に参加しました。両親はこの年の支部登山にも参加し、より一層本山に親しんで来たようで、仕事で行けなかった私は羨ましくその話を聞きました。
 入信して一番変わったのは父だと思います。現在は積極的に参詣し、また普段の生活の中でも前向きになってくれたことで、母も助けられているようです。
 2人とも、次の平成21年・立正安国論・正義顕揚750年には、皆様と共に元気で家族一緒に登山できますよう、末永く健康でいて欲しいと願っています。
 まだまだこれからの家族でありますが、皆様よろしくお願いいたします。
 


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