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蒼碧集9より体験発表…【4】

 投稿者:HP執行部  投稿日:2009年 3月 7日(土)16時39分0秒
 
護法の一念で

悪質な進行癌を克服

S寺法華講 K.K

(平成十年五月二十四日)

本日は、妙観講第二十回総会にお招きいただき、また、この記念すべき総会で、
私に体験を述べさせていただく機会を与えられましたことは、光栄の極みです。
まことにありがとうございます。


私は、昭和三十六年、五歳の時に、創価学会員として日蓮正宗に入信いたしました。
そして、父母と共に、熱心に活動する学会っ子として育ってまいりました。

そんななか、父が学会活動中に脳内出血で倒れ、事業の精算を余儀なくされたり、
また、僅かばかり残ったお金を、同志である学会員に騙し取られて一文無しになって
しまうなど、様々なできごとが続きました。
さらに、私が一生懸命、学会活動をすればするほど、
創価学会の危険な体質を見せつけられ、ついに平成二年二月、御法主上人猊下のもとで
正しい信心をしたい、との思いで、地域の同志達とともに創価学会を脱会いたしました。



私の脱会は、県総合女子部長、県主任部長という要職を経験した学会職員や、
地域の男子部幹部を、多数巻き込んでの脱会でありましたので、
学会からの憎しみが集中しました。

 例えば、私を呪う唱題表が配布されたり、道ですれ違った見ず知らずの小学生までが
私を誹謗したり、また、近年の学会幹部の話によると、私を殺してもいい、
と考えている者までいるそうです。

 それでも、怯むことなく学会との闘いを続けていきましたところ、
平成八年の暮れより、学会怪文書『勝ち鬨』が、嘘と捏造の記事をもって、
私の誹謗中傷を連載で始め、全国に配布いたしました。



 明けて平成九年になりますと、学会は、この『勝ち鬨』に加え、
県青年部長名で私を中傷する変態文書を作成し、各所に配布する、
という馬鹿げた行為を始めました。

 この時期は、ちょうど仕事の面においても、業界自体が平成不況の影響を受け、
年間の商い高が半分になったとも言われている状況でしたので、私の経営する会社も、
立て直しに四苦八苦している、たいへん多忙な時でありました。



 私は、仕事がこんな大変な時に、学会も厄介なことをしてくれた、と思いましたが、
その時に、妙観講のS副講頭から、「これは折伏ゆえに起きた難なのですから、
かえって罪障消滅ができて、良くなりますよ」との話がありました。
今になって思えば、本当に、そのとおりの結果となっております。


 ところで私は、学会男子部だった時代に、きわめて重い糖尿病を患いました。
その糖尿病を引きずったまま、それ以外にも複数の病を抱えてしまい、
長い年月にわたって、毎月病院へ行き、常に医者に管理されている状態でした。

 そんな体の状態でも、食べることと飲むことが大好きで、酒の量を減らすことも、
食事の量を減らすこともできず、お酒にいたっては、どれほど多忙であっても、毎晩、缶ビール二本、冷酒二本、ウィスキーの水割り四杯、そして仕上げはワインか焼酎をと、まるで浴びるがごとく飲み続けていました。

 医者からは「このままでは、間違いなく五年前後で死ぬことになりますよ」と
警告されましたが、私は、「酒を止めるのなら死んだと同じですから」と言って、
まったく酒を減らしませんでした。



 こんな状態ですから、私は病院から、最低年一回の胃カメラを義務付けられています。

 この時も、四月までには必ず胃カメラを飲むように、と指示されていたのですが、
学会のバラ撒く怪文書への対応と、仕事の立て直しに追われ、
ついつい時間を惜しんで胃カメラを飲まずにいたのです。

 それでも、なんとか夏頃までには胃カメラでの検査をしよう、と考えておりましたが、
夏になると、学会は、今度は『聖教新聞』を使い、実名入りで私を誹謗中傷してきました。

 私は、この悪質な『聖教新聞』の行為に対し、弁護士とも綿密な打ち合わせの上、
甲府地検に刑事告訴を行ない、続いて学会怪文書『勝ち鬨』に対しても
刑事告訴を行ないました。



 そんな関係上、胃カメラでの検査は、大幅に遅れて十月になったのです。

 その時の検査は、いつもより時間が長い上に、途中、慌てて専門医を
呼ぶ声などが聞こえ、さらには「生検、生検」という言葉が妙に気にかかりました。
生検というのは、御承知のように、肝臓とか胃の細胞を直接取って検査することです。

終了後、検査した医師より、「潰瘍がありましたが、心配はないと思います。
いちおう、その部分の細胞を取って検査に回しておきました」との説明があり、
私はすっかり安心していました。

 ところが、数日後、病院より突然電話があって、
「家族の方と来てください」とのことでした。「もしや」と不安を募らせながら、
指定された時間に妻と二人で病院に行き、詳しい説明を聞きました。

 医師が困惑した顔で言葉を選びながら話す様子に、
私は、「つまり、癌ですか?私は信仰を持っていますので、
ハッキリ全てを話してください」とお願いしました。

 すると医師の回答は、「かなり悪質な癌で、それも極めて危険な状態であり、
早急に手術を要する」との内容でした。

 その時、看護師さんには、私が何の動揺もしていないように見えたらしく、
「これほど悪質な癌を告知されたにも拘わらず、
まったく動揺していない方を初めて見ました。何をされているのですか?」

と尋ねてきましたので、私は、日蓮正宗の信心をしていること、
聖教新聞を刑事告訴していること、さらに創価学会の反社会性を語り、
病院としての今後の配慮をお願いしました。

 それから私は、真っ先にS寺へ向かい、御住職に病気のことを報告し、
今後のことについて種々御指導をいただきました。

 しかし、何を報告して、どんな御指導をいただいたか、よく覚えていません。
とにかく私は、「死を迎えるまで講頭として恥ずかしくない信仰をしよう」と、
もう死を迎えることで頭がいっぱいだったのです。



 S寺を出て家路に向かう途中、共に学会に対して闘ってきた大草講頭や
S副講頭にとにかく連絡しなければと思い、自動車電話でS副講頭に連絡をいたしました。

 夜遅くのことで、しかも遠い道程であるにもかかわらず、大草講頭とS副講頭は
「とにかく、すぐ行くから」と、我が家に駆けつけてくださいました。

 大草講頭には、本当に細かなところまで激励をしていただき、
最後には「Kさん、順番が違いますよ。僕が死んでからKさんが死ぬのです。
そういう約束だったはずですよ」と励ましてくださり、S副講頭は、
「いまKさんに死なれたら困るんです」と涙ながらに語られました。

私は、仮に死ぬことになっても、本当に信頼できる人たちと出会うことが
できたことを心から喜び、涙を抑えるのに必死でありました。



翌日、本山へ向かう私の車に大草講頭から電話がありました。大草講頭は、
まるで自分のことのように、朝から八方手をつくし、有名な医者の手配をして
くださっていたのです。

紹介していただいた医師は、手術しないで癌を治すことで有名な方でありましたが、
私を検査した結果、「かなり危険な状態になっているかもしれない。
即刻、もう一度胃カメラを飲んで、検査結果によっては、即手術だ」と言われ、
設備と人材の整った東京の大学病院をその場で紹介し、
担当医師まで指名してくださいました。



こうして私は、紹介された医師の手で、再び胃カメラでの検査を受けました。
ところが、甲府の病院で検査した時にあった潰瘍が、全く消滅しており、
癌もどこにあるのか、見当たらないというのです。それでも疑わしい部分の細胞を取り、
病理検査に回し、検査結果は後日ということになりました。

 検査結果を待つ、ある日のことでした。仕事で富士宮へ向かう途中、
突然、涙が溢れてきました。


 そして、「これは罰だ。脱会した時以来、御法主上人猊下に
ひたすら御奉公すべき身であったのに、いつ死んだっていい、などと自分の身も
省みずに暮らしていた罰だ。自分の役目を疎かにしていた罰だ」と、
頭の中に今までの様々なできごとが浮かんできました。

 体内の水分がなくなるのではないかと思うほど涙が出てきました。
そしていつのまにか、初めて真剣に「御本尊様、私を救ってください。助けてください」と、
必死に泣きながらお題目をあげていました。

 この日から私は、御本尊様、御法主上人猊下にもっともっと御奉公をしたい、
と真剣に祈るようになったのです。



 検査結果が出るまでに、御法主上人猊下の北海道旭川への御親教などがありましたが、
家族や周りの者は、私の身体を気遣い、御親教へ行くことを止めました。しかし私は、
今後、許される限り最後の最後まで、猊下のお側で御奉公させていただくんだ、
との決意でお供させていただきました。

 御親教から戻ってきた日、検査結果についての連絡があり、指定された日に結果を
聞きに行きましたところ、やはり、悪質な癌で即手術ということになり、
大学病院へ入院となりました。



 手術は、七時間以上もかかる大手術となりました。手術中、S寺では、
もったいなくも御住職が有志達とともに唱題をしてくださいました。

 また、大草講頭より私の病のことを聞かれた小川只道御尊師は「僕も病院へ行くよ」と
心配してくださり、心よりありがたく思いました。

 そして、多くの方々が見守ってくださる中、手術は大成功いたしました。
困難な手術であったにもかかわらず、術後の経過は医師も驚くほど順調で、
術後二日目から歩き出し、きわめて早い退院となりました。

 癌で胃を全部摘出した場合、その後の生活が非常に大変であるとよく聞きますが、
私の場合は三度の食事もキチンと取れますし、社会生活にさほど不便を感じておりません。
退院してきてすぐ、取引先との中華料理の食事会がありましたが、
皆さん私の病気にまったく気付かず、胃のない私に向かって
「相変わらず胃腸が丈夫ですね」などと言われ、返答に困ったほどです。



 今、癌告知から現在までを振り返ってみますと、御本尊様のお力に驚くばかりであります。

 まず、私の癌は、表には現われないために発見がじつに困難で、
しかも進行がかなり早い悪質な癌でした。そのため、私と同じくらいの年齢で、
これにかかった人は、発見されたときには、ほとんど全てのケースが手遅れだったそうであります。もし、あの時、学会との闘いがなく、予定どおり四月の時点で胃カメラを飲んでいたら、痛が小さすぎて絶対に発見されなかったそうであります。また十月の時点でも、たまたま潰瘍が発見されなければ、見逃がしていただろう、とのことであります。

 癌発見のきっかけとなった潰瘍についても、不思議なことに、
最初の病院での検査の時に出てきたのみで、
数日後の検査では姿形がまったくありませんでした。
それは、まるで、臓器の中で浸潤を続けている癌細胞の存在を知らせるために、
出てきたようなものだったのです。



 このような奇跡的な発見、そして手術の大成功、これだけでも御本尊様の大功徳には
感謝申し上げるばかりですが、さらに「このままでは、
間違いなく五年前後で死にますよ」と医師に断言されていた糖尿病の数値も、完全に正常に戻り、他の持病も含めて、この癌との闘いの中ですべて治ってしまったのであります。

 入院する前、御住職に、「許されるのであれは、もし、生きて帰ってこれた暁には、
来年の妙観講の総会で体験発表をさせていただきたい」と、ご相談しました。

 御住職は快諾してくださりながらも、他の講中の総会で体験を述べるなど、
失礼にあたらないか、と御心配されていました。私は、「大草講頭を先頭に、
学会と最前線で闘っている妙観講の方々の前で、体験を発表させていただきたいのです」と
申し上げ、また、その旨を大草講頭にもお話いたしました。



 そして本日、生きて帰り、こうして皆様の前で体験発表させていただくことができました。

 これもひとえに、大草講頭、S副講頭並びに多くの妙観講の皆様のお力添えが
あったからであります。

 先日、癌再発の検診を受けましたところ、
ありとあらゆる検査数値が正常でありました。
しかし、再発率が非常に高い悪質な癌でありますから、けっして油断はしておりません。
日蓮大聖人様は、「病あれは死ぬべしという事不定なり。
又このやまひは仏の御はからひか。そのゆへは浄名経・捏磐経には病ある人、
仏になるべきよしとかれて侯。病によりて道心はおこり候か」と仰せられております。



 これからも油断・怠りなく、御本尊様に救っていただいたこの命で、
大御本尊様と御法主上人猊下に対し奉り、妙観講の皆様に負けぬよう、
そして妙観講と共に、さらなる御奉公をしてまいる決意であります。(大拍手)


*上記体験発表は、暁鐘編集室の承諾を得て蒼碧集9より引用しております。
 

蒼碧集9より体験発表…【3】

 投稿者:HP執行部  投稿日:2009年 2月16日(月)20時43分53秒
編集済
 
転重軽受の実証!

いま噛みしめる妙法の功力

H.A

私は、昭和六十二年に入信し、今年で十八年目になります。
本日は、入信後、両親から猛烈な反対を受けたことと、それらを乗り越えてきたときに
頂戴した功徳の体験を発表させていただきます。

 私の実家は、祖父の代から仙台市内にガソリンスタンドや輸送所などを持っており、
父の代には、さらに新規事業を立ち上げて、東北六県に店舗を広げたり、
ビルを建てるなどして、そのまま順調にいくかに見えておりました。

 しかし、今思えば、それは砂上の楼閣のようなものであり、私達一家は、
転落の原因を日々に積んでいることを気付かずにいたのでした。
といいますのも、実家の宗旨は禅宗で、実家の敷地には祖父の代から邪宗の社が
祭られているほど、邪宗に深く関わってきたのです。

そしてまた、創価学会が日蓮正宗の信徒団体だった当時、両親は、
近所の学会員からたびたび仏法の話を聞いていたようですが、それに強く反発して、
悪口を言っておりました。

 私自身も、十八の時、進学のために上京してからは、都内に住む学会員のいとこから
座談会に誘われるなど、たびたび信心の話をされましたが、その学会の座談会の
内容というのは、山本リンダが来て、涙を流しながら「池田センセーは素晴らしい」と
話す体験談や、池田の前で涙を流しながら行なう文化祭や体育祭の
ビデオ上映といったもので、とても信仰する気にはなれませんでした。

 そして、大学の卒業を控えたある日、私は、親戚からたいへんショッキングな
知らせを受けたのです。それは、「父が不渡り手形を出してしまい、
会社が倒産して、ヤクザに追われ、身を隠さなければならなくなった」というものでした。

 その時は本当に心配しましたが、それでも、私をピアニストにすることが
夢だった母の希望で、音大を卒業した私はヨーロッパに留学しました。
 そして、二年半の留学を終えて帰国したところ、両親は、事業も、財産も、
住む家までも失ってしまっていました。

 また、私自身は、東京での生活を再スタートさせたものの、ピアニストを
目ざしながら自活していく道は、そうそうたやすいものではなく、
高校や大学の非常勤講師をしても、マンションの家賃を払えばほとんど手元に
残らない程度の収入しかありませんでした。
 足りない分は、何とか母が仕送りしてくれましたが、いつも経済的に苦しく、
その上、深刻な対人関係の悩みが重なって、私の生活は八方塞がりになってしまいました.

 そのような中の昭和六十二年、妙観講のS.Kさんから折伏を受け、
ようやく日蓮正宗に入信することができたのです。
入信してすぐに、この信心は本物だと確信した私は、先輩方から教えられたとおり、
身の回りの友人・知人、職場の同僚や両親などを次々と折伏していきました。

 しかし、期待とは裏腹に、折伏した人はことごとく仏法を嫌い、
はとんどの人達が、「二度と連絡しないでくれ」と言って離れていってしまいました。
 中でも、両親の反対は尋常ではなく、仏法の話をする私に対して、
まるで人が違ったように、殴ったり敵ったりしてきたのです。
灰皿を思いきり投げつけられたり、棒で叩かれたり、髪を引っ張られたりしたこともあり、
あげくは周りの人達に「娘は気が狂った」と言いふらされました。

 そして、突然上京してきた両親は、
「信仰をやめないのなら、親子の緑を切る」と言って、信仰をやめるか、または、
遺産相統権を全て放棄するか、どちらをとるか、と迫ってきたのです。
もちろん、信心をやめることなど、できるはずもありません。
私が相続を放棄することによって、少しは両親が冷静になって、
話を聞けるようになってくれれば、という思いもあり、
私は相続放棄の書類に署名・捺印しました。

 ところが、私が信仰をやめないと知った両親は、
今度は、「御住職に直談判をする」と言って、理境妨に乗り込んでしまったのです。
その時は、小川御住職様がうまく取りなしてくださいましたが、
本当に御迷惑をお掛けしてしまいました。

 その後、両親は、私から折伏されるのを嫌って内緒で引っ越してしまい、
一時、両親の居場所がわからなくなってしまったこともありました。

 御書に
「過去の謗法の罪の減せんとて邪見の父母にせめられさせ給ふ。
(中略)我が身は過去に謗法の者なりける事疑ひ給ふことなかれ。
此を疑って現世の軽苦忍びがたくて、慈父のせめに随ひて存の外に法華経を
すつるよしあるならば、我が身地獄に堕つるのみならず、悲母も慈父も
大阿鼻地獄に堕ちてともにかなしまん事疑ひなかるべし」(御書九八一ページ)と
示されていますが、私は、これが自分の親かと思うほど、狂ったように信心に
反対する両親の姿を見て、自分の過去の罪業がどれはど深いものであるかを思い知り、
本当に一生懸命に功徳を積んでいかなくてはいけない、と思いました。

 そして、一日最低二時間の唱題を実践するとともに、毎月の御登山や会合にも
積極的に参加し、さらに折伏も進めていきました。

 学会員に対して折伏するようになってからは、留守番電話に、「これから行ってやる。
ドアをバールでこじ開けてやるぞ」という脅迫のメッセージが入っていたり、
現実に、毎晩のように、家の前で学会男子部から待ち伏せされ、
ビデオカメラを向けられたり、腕をひねり上げられたあげく、
私が携帯していたカメラを奪われて壊される、といったことも起きました。

 しかし、一方では、たくさんの学会員の方を正宗に帰伏させることもできました。
そして、そのように一分ながらも功徳を積ませていただいてくる中、
私の身の回りは大きく変化してきたのです。

 じつは、後で知ったことなのですが、父は、ちょうど私が日蓮正宗に入信した頃から、
不動産の競売物件を買い取り、それをリフォームして貸す、という賃貸業を始めており、
十数年の間に、店舗を含む賃貸物件を二十数件ほど所有するようになっていたようです。

 その父が、平成九年のある日、突然、私に「東京都内に物件を購入し、ピアノ教室を
開いてはどうか。そのための資金援助をする」と言ってきたのです。
私が入信して十年目のことでした。私は、それまで父から尋常ではない仕打ちを
受けてきていましたので、一瞬、耳を疑ってしまいましたが、父の申し出に従って、
都内に土地・建物を購入し、そこでピアノ教室を開きました。しかし、ピアノ教室を
開いたところで、生徒が集まって来なければ何にもなりません。
とくに、不況の時代ですから、厳しい状況になることは充分に予測できました。

 ところが、開業したとたん、私の教室には、諸天善神の加護としか
考えられないような形で生徒が集まり続け、ついには、私一人では手に負えなくなって、
五年後には講師の先生に手伝ってもらって運営するようにまでなったのです。

 平成十年には、妙観講の同志であった主人と結婚し、以来、いっそう信心活動に
励んできました。

 そうした中、父から、ここ七年程の間に何度か、「土地の開発のために資金が
必要になったから、会社で所有して賃貸に出している仙台市内の物件を
買い取ってくれないか」と言ってきました。私は、信仰以外のことは、
できるだけ父の意に添うようにやっていこうと思っていましたので、申し出のあるつど、
買い取りました。そして、家賃収入の管理は全て父の会社に任せておりました。
もともと、父の手助けをするつもりでしたので、私としては、報酬はあてに
していなかったのです。

 ところが、税理士さんの指導で、この春から、私の所有となっている
2DK・4部屋と2LDK・2部屋の、計6部屋の家賃が、
直接、私の方に入金されることになった、と父が知らせてきたのです。

 これらの物件は、広めで、いずれも地下鉄の駅から一分以内の所にあるため、
空き室が出てもすぐに埋まります。今年も、二件の引っ越しがありましたが、
二件とも、待っていたかのようにすぐに次の入居者が決まりました。

 また、その際の改装のことなどは、父が、「おまえには、無理を言って買って
もらったのだから」と言って、そのつど手助けをしてくれました。

 数年前まで、あれほど信仰を嫌って暴力まで振るつていた父からは、
考えられないことです。
あらためて、"折伏をしたことで父母から責められるのは過去の罪業によるものであり、
折伏をして難に遭えば遭うほど罪障が消滅されていく″という大聖人様の御教えが、
まさに真実であることを確信いたしました。この上は、何としても父を入信まで
もっていかなければ、と思っております。

 そしてまた、入信当初は、経済苦、仕事の悩みなど、たくさんの悩みを抱え、
本業の他にあちらこちらでアルバイトをして、やっと生活を支えていたような自分が、
一分でも罪障消滅をさせていただけたおかげで、現在では、毎月、本業のピアノ教室で
得られる収入の二倍以上の収入が得られるようになりました。これによって、
御供養はもちろん、家族揃っての御登山や折伏活動などにも、何の不安もなく
励むことができます。

 本当に、御本尊様の功徳は絶大で、感謝しても感謝しきれません。
また、これまで、自分の罪業の深さに押し潰されそうになった時もありましたが、
講頭や先輩方が、そのつど、手を引いて導いてくださいました。そのおかげで、
自分のような者でも、一分一分、功徳を積ませていただけたのだと思います。
本当にありがとうございました。

今年の元朝勤行の際、私は、「猊下様の御意を安んじ奉り、広宣流布のお役に立てる
御奉公を一分でもさせていただきたい」との願いを立てましたが、今後は、御報恩のため、
さらなる精進を重ね、しっかりと御奉公と罪障消滅の道を歩んでまいります。
ありがとうございました。

*上記体験発表は、暁鐘編集室の承諾を得て蒼碧集9より引用しております。
 

蒼碧集9より体験発表…【2】

 投稿者:HP執行部  投稿日:2009年 1月29日(木)20時46分58秒
  折伏進展と共に

新事業の売上が二〇〇%増

T.M



 皆さん、こんにちは。五十一支区のT.Mと申します。

私は、昭和三十二年、小学二年の時に、創価学会を通して日蓮正宗に入信しました。
そして、中学三年生の頃から学会の活動にのめり込むようになり、
受験の時期も聖教新聞の配達をし、さらに、青年部となってからは、
地域の本部幹部となり、また輸送班員として、十数年間にわたり、
任務優先の生活もしました。池田大作が書いたと言われる書物も全て読破しておりました。

 しかし、昭和六十二年のある時、『聖教新聞』の記事を読んでいるうちに、
書物や学会内部で伝えられる池田大作像と、本物の池田大作とは全く違う、
ということに気付き、昭和六十三年初頭、創価学会の活動を全て停止しました。

 当時は、創価学会が決定的に謗法化してしまう以前でしたので、
私は、自分が決断したことが間違いないか、自分なりに調べていきました。
ところが、その過程において、仏法上とんでもない大慢心を起こしてしまったのです。
それは、「池田と直接会ったこともない私ですら、彼の本性がわかるのに、
なぜ猊下様はわからないのだろう、なぜ池田と仲良くしているのだろう」というものでした。

 今にして思えば、猊下様はお気付きになっていなかったのではなく、
深い御慈悲の上から創価学会を善導あそばされていたのですが、
私は、そんなことにも気付かず、慢心の上から批判の心を懐いてしまったのです。

 その後、平成三年一月に正式に脱会してお寺に付いたものの、私の生命の底辺に、
この大慢心が巣くっていたため、十三年間に三回も所属寺院を移り変わる、
という大罪を犯してしまいました。

 そして、平成十六年九月十二日、勝手に所属寺院を飛び出し、
宙に浮く形となってしまっていた私は、家族を伴って大石寺に向かい、
吸い込まれるように理境坊を訪ねたのです。

 そんな私達家族を、小川御住職様は御慈悲の上から受け止めてくださり、
ちょうど登山されていた大草講頭に会うよう、手配をしてくださいました。

 講頭は、初めてお会いするにも拘わらず、私の話の一つひとつを、
大きく包容して聞いてくださいました。私は何故か、この方なら間違いない、
この方について行けば大丈夫だ、という、言い知れぬ安堵感と喜びが湧きあがり、
子供のように溢れる涙を押さえることができませんでした。

 そして、その翌月から講中の諸会合へ出席させていただくこととなったのですが、
支区座談会・本部講習会・定例班長会・本部幹部会・御講登山と参加する中、
私と講中幹部の方々との明らかな違いを思い知らされることとなりました。

 妙観講の幹部の方々の信仰姿勢は、皆さん愚直で純粋、求道心旺盛で、
四六時中、身を低くして仏法を求めておられるのです。私は、その姿に我が身を照らして、
慢心だらけの今までの生き方・考え方を改め、この講中で正しい信心を身に染めていこう、
と心から決意をしました。

 また、昨年七月、本部講習会に参加する中、御書の御文を通して、
御僧侶の尊さと重大な存在意義すなわち、御僧侶がおられなければ
仏法は途絶えてしまうこと、御僧侶の批判をすることは、仏
法を断絶させ滅ぼそうとする行為であって、謗法になること、を教えていただき、
私は、かつての所属寺院で犯してしまった謗法の罪の深さを思い知りました。

 以来、毎日、朝夕の勤行の中で、その犯してしまった謗法を憾悔申し上げ、
罪障消滅を願って、よりいっそう折伏に励んできました。

 折伏については、妙観講に移籍して以来、先輩方に付いて、
それなりに行じてきたつもりでしたが、悪業の深さゆえか、一年間は全く入信決定する人が
出なかったのです。

 ところが、昨年七月に班長という大任を拝命し、その二ケ月後の九月に
初めて夏季合宿に参加した頃から、ようやく闇が晴れたように折伏が進みだして、
班としても毎月の誓願を達成し続け、この一年間で十八名の折伏が成就いたしました。
(拍手)

 そして、それに伴って、仕事上にも大きな変化が現われてきたのです。

 私は、平成五年までは、自営で二十六年間にわたって印刷会社を営んでいたのですが、
地主の一方的な都合で借家であった工場付き住宅の立ち退きを迫られ、
その裁判が続いておりました。

 そうした状況下にあった平成五年、御宗門では、元旦から百日間、
僧俗挙げて一人が一日二時間・五千遍ずつのお題目を唱える、
という方針を打ち出されました。

 私自身も、真剣にそれに取り組んでいったところ、いつしか私の心に、
それまでの力ずくで生きてきた人生に終止符を打ち、とにかく仏道修行を生活の根本にして、
仏法の素晴らしさを実証する人生を歩んでいこう、
との想いがフツフツと湧きあがってきました。

 すると、ちょうど百日間の唱題行の満願の日を迎えた直後、揉めていた立ち退き問題が、
アッという間に私の思いどおりに解決し、幼い子供達と妻を路頭に迷わせずに済みました。

 そして、同時に、別の仕事の道が開けてきたのです。

と言いますのは、当時、私は、趣味が高じて、
熱帯魚を育てるための水質の研究に取り組んでおりました。ところが、
ちょっとしたきっかけから、アメリカの工業用バクテリアのトップメーカーの方と知り合い、
私とそのメーカーが共同で、これらの魚を使って、ある微生物の開発を
行なうこととなったのです。

 当初のうちは何十回という失敗の連続でしたが、唱題をしては、
「これは御本尊様からいただいた仕事であり、必ず成功する」と信じて取り組んだ結果、
思いもよらなかった、微生物と販売のシステム、そして、水を高度活性化するための原理を、
私が手中にすることとなったのです。

 私は、そこで知り得た知識を元に、事業を立ち上げました。

初めの半年間で、全国の熱帯魚屋さんに電話での営業活動をしたところ、
ある程度の顧客も開拓できましたので、その後は、営業や勧誘の活動は一切せず、
仕事は夕刻の発送のみとしました。それでも、リピートや口コミで注文がきますので、
そこそこ生活できるだけの収入になり、仕事はそれ一本としました。

 そして、平成十六年に妙観講の講員となって、折伏に励んでくるなか、
なんと、売り上げが急速に伸び出したのです。
昨年は、一昨年と比較して二〇〇%の伸びとなり、私の実質的年収としては
千五百万円を超えるまでに至りました。今年度の売り上げは、
さらにそれを上回る成長をしております。

 私は、事業にはほとんど無頓着なのですが、それでも、御本尊様の功徳によって
開発された製品なので、海外にも広めていきたい、
まずはアジア方面から広めていきたい、と、おぼろげながら考えていました。

 しかし、目下のところ、折伏や育成に駆け回っていて、
そんな時間的余裕もありませんので、放っておいたところ、今年の三月のある日、
ある貿易代行会社から「あなたの会社の製品が今、台湾と香港で騒がれているので、
ぜひ取り扱いたい」と言ってきたのです。思いもかけなかったことでしたので、
これには驚き、本当に御本尊様の御力、折伏の功徳はすごい、
と思わずにはいられませんでした。

 現在、徐々にではありますが、海外に向けての輸出が始まり、
これからも伸びていきそうな手応えを感じております。

また、家族のことですが、妙観講に入講してからは、妻も子供達も、
講中の諸会合を中心にした生活を送るようになり、高校二年の娘のK子は、
H部長の応援を得て、昨年の十二月以降、三名の折伏を成就させていただきました。

 息子のK介は、入講以来の私の変化を見ていたのでしょう、
ある時、私に「お父さん、変わったよね」と言ってきました。その言葉に、
私は一瞬、言葉を失いました。かつての私は、子供達にも信仰を威圧的に強いるだけで、
何でもかんでも自分の一存で決めるものですから、所属寺院を移り変わった時も
辛い想いをさせてしまったと思います。

 私は息子に、「妙観講では、自分が変わらなければやっていけないんだよ。
どの先輩も純粋で、講頭さんを見ればわかるだろ。一番、頭が低くて、
一番求道心が強いんじゃないかな」と話しました。

 今は、子供達も自ら進んでする信仰に変わってきたことが、本当に嬉しく、
また有り難く思います。

 私は、自分の福徳のなさから、大きな回り道をしてしまいましたが、
今、講中の諸先輩との因縁を、命の底から深く感じております。

 これからは、この講中に脈打つ歴史と精神を我が身に染め抜いて、
講中の当面の目標である「平成二十一年・講員総数五万名」の達成を目指し、
共に折伏を行じ、一分ながらもお役に立ってまいる所存であります。

 ありがとうございました。(大拍手)

*上記体験発表は、暁鐘編集室の承諾を得て蒼碧集9より引用しております。
 

蒼碧集9より体験発表…【1】

 投稿者:HP執行部  投稿日:2009年 1月13日(火)22時48分3秒
  邪正の違い歴然!
親戚も驚いた母の成仏
E.Y

 こんにちは。E.Yです。

本日は、昨年の四月十五日に亡くなった母のことと、私自身が信心で変わったこ
とをお話ざせていただきます。

 私の家は、先祖代々の宗旨は禅宗ですが、祖母が立正佼成会に入信し、私が物
心ついた頃には熱心に立正佼成会の信仰をしておりました。私自身、小さい頃、
姉と一緒に祖母に手を引かれて、立正佼成会の集まりに連れて行かれたことを覚
えています。

 そうした中、今度は、父が職場の人に誘われて創価学会に入り、御本尊様をお
受けしたのですが、怒った祖母は、父が仕事に行っている間に、御本尊様を立正
佼成会の本部に持って行って焼いてしまう、という大謗法を犯してしまったので
す。

思えば、その頃から我が家は、まさに仏罰を絵に描いたような状況になっていき
ました。
 まず、祖母は、御本尊様を御不敬した直後からリウマチで苦しむようになり、
寝たきりとなって、三年間、許しみ抜いたあげく、亡くなってしまいました。
 また、同じ頃、父は、喘息(ぜんそく)を患(わずら)い、発作が出ると仕事
にも行けなくなるため、収人が安定せず、私の家は、いつもいつも貧乏でお金に
困っていました。
 さらに、姉は、精神的な障害から、小学校に行くことすらできませんでした。
 そして、私自身はといえば、聴覚(ちょうかく)に異常があり、両耳ともほと
んど聞こえないくらいの難聴でした。
 そのせいもあってか、小・中学校では、皆から仲間はずれにされた上、階段か
ら突き落とされたり、虫をぶつけられたりと、毎日毎日、ひどいイジメに遭(あ
)っておりました。もともと内向的だった私は、学校でも家でも、ほとんど口を
開くことがなく、イジメについて一人で苦しんでいました。

 やがて高校を卒業した私は、将来に何のあてもないまま、喫茶店でウエイトレ
スのアルバイトをしていたのですが、そこで知り合った妙観講のT.Mさんから
折伏を受け、昭和五十九年、日蓮正宗に入信することができたのです。

 ところが、家に帰って、日蓮正宗に入信したことを母に話したところ、母は、
「宗教は金儲けだ。すぐに止めると言ってきなさい」と、大変な剣幕(けんまく
)で怒り出したのです。
 それも無理のないことだったかもしれません。母は、昔、立正佼成会に入って
いた祖母がリウマチで寝たきりになって、その看病(かんびょう)だけでも大変
なのに、さらに父も喘息で働けず、医者に払うお金にも困るような状況の中で、
祖母から言いつけられては、立正佼成会に布施(ふせ)を持って行かされるなど
、さんざんな目に遭っていたのです。宗教に正邪の違いがあることなど知る由も
なかった母は、宗教は懲(こ)りごり、という心境だったのでしょう。

 それからの十年間というもの、私がいくら話しても、母は全く耳を貸してくれ
ず、徹底的に信仰に反対し続けたのでした。
 しかし、私は、母の反対を押し切って勤行に励み、会合にも参加して、さらに
教えられたとおり、周囲の人達を片っ端から折伏していきました。

 そうした中の、入信六年目の平成二年、父を折伏した際、父は初めて、自分が
創価学会を通じて入信していたこと、祖母の反対で退転してしまったこと、御本
尊様を御不敬されたことなどを打ち明けてきました。
 その頃の父は、喘息のために何年間も入院しており、かなり身体も弱っており
ました。御本尊様を御不敬した仏罰でこんなにひどい目に遭っているのだ、と知
った父は、妙観講に入講することになったのですが、この時も、母は頑(がん)
として譲ることなく、自分は絶対に入らない、と言い張りました。

 そんな母が、この信心ができるようになったきっかけは、平成三年の父の葬儀
でした。

 父が亡くなった時、私は、葬儀は何としても日蓮正宗で出さなければ、と思い
、母に「お父さんは、自分が死んだら日蓮正宗で葬儀を出してほしい、と言って
いた。そうさせてほしい」と話しました。
すると母は、あっさりと 「お前に任せる」と言ってくれたのです。
 猛烈に反対してくるものを覚悟していただけに、それは本当に意外な返事でし
た。

 さらに驚いたのは、その後の母の行動でした。母は、誰に言われたわけでもな
いのに、その日のうちに菩提寺である禅宗の寺に足を運び、「私の家は日蓮正宗
に改宗しました」と言って、禅宗と縁を切ってきたのです。私は、「まだ御授戒
も受けていないのに、せっかちな母だなぁ」と思いながらも、本当に嬉しく思い
ました。

 そして、無事に父の葬儀が終わった一ヵ月後、先輩方が私の実家に足を運んで
くださり、母を折伏してくださいました。母は、「父の追善供養(ついぜんくよ
う)のためにも」ということで納得し、姉と共に入信を決意してくれました。(
拍手)
 十年もの間、あれほど強行に反対し続けた母とは思えない変わりようでした。

 母は、足が悪かったために、本部での会合には参加できませんでしたが、私が
実家に出向いて行なう班座談会の時には、いつもニコニコして話を聞いてくれま
した。
また、私が『暁鐘』や『妙観』を渡すと、母はいつも熱心に読んでくれました。
とくに、御法主上人猊下様の御説法は、本当に真剣に読んでいました。
 そして、「本当に池田は悪いやつだね」とか「創価学会はとても大きな組織だ
けど、負けないように頑張れ」などと話してくれるようになったのです。総会に
も、何回か参加することができました。

 しかし、高齢となった母は、五年程前から心臓が弱くなり、入退院を繰り返す
ようになっていきました。
 途中、二回ほど危篤(きとく)状態に陥ったこともありましたが、小川御住職
様に当病平癒(とうびょうへいゆ)の御祈念をしていただいたおかげで、そのつ
ど、命を取り留めることができ、こうした体験を通じて、母は御本尊様への信心
を固めていくことができたのです。

 そして、昨年四月十五日、母は臨終を迎えましたが、全く苦しむこともなく、
穏やかな相で亡くなりました。
 一日おいて四月十七日にお通夜、翌十八日に告別式と決まり、小川御住職様の
お計らいで、近くのU市のJ寺様から御僧侶が来てくださることになりました。
私は、母の成仏を願って、必死で唱題していきました。
そして、お通夜を迎えた時、母は本当にすばらしい姿になっていたのです。

御書に、
「人は臨終の時、地獄に堕つる者は黒色となる上、其の身重き事千引(ちびき)
の石(いわ)の如し。善人は設ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども、臨
終に色変じて白色となる。又軽き事鵞毛(がもう)の如し、軟らかなる事兜羅綿
(とろめん)の如し」(御書一二九〇ページ)と仰せられ、成仏した人は、生前
よりも色が白くなり、死後硬直が起こらず、臭いも全くなく、身体が柔らかくな
る、と示されています。

 生前の母は、決して色白な人ではありませんでしたが、臨終を迎えた母の顔は
、死に化粧などしていないのに、本当に白くなって、シミの一つもないのです。
体も、硬直することなく、柔らかいままでした。まるで安らかに眠っているよう
な、本当に穏やかな相でした。


 母の遺体と対面した親戚の叔父や叔母からは、「きれいだ!別人みたいだ!」
と驚きの声が上がり、ある人は、驚きのあまり、「本当にお母さんはきれいな人
だ。あなたはお母さんに似なくて可哀相だったね」(笑い)と言ってきました。

 私にとっては、ずいぶん失礼な話ですが、それも、母の相の、あまりの素晴ら
しさから出た言葉ですから、嬉しく思いました。 お通夜の後、御僧侶に御礼を
申し上げたところ、御僧侶からも「本当にきれいな相ですね。自信を持っていい
ですよ」 と言っていただきました。

 お通夜の日は、講中の同志の方々が大勢駆けつけてきてくださり、母のために
、泊りがけでお題目を唱えてくださいました。その功徳に支えられて、母の相は
さらにきれいになっていき、息を引き取ってから火葬までのまる三日間、ドライ
アイスも入れていないのに、全く死臭もありませんでした。

 思えば、私は、これまで祖母・父・母と、三人の肉親を見送りました。
 立正佼成会の信者で御本尊様を御不敬した祖母は、臨終が迫った時、苦しみの
あまり「神も仏もない」と叫んで息を引き取り、顔が真っ黒になってしまいまし
た。まさに、御書や経典に示されたとおりの地獄の相です。

 また、大切な御本尊様をお護りできなかった父は、晩年、妙観講に入講はした
ものの、御題目を唱えることすらなかなかできないような信心状態で、結局、臨
終間際には、私に「殺してくれ」と頼むほど、苦しみぬいて亡くなったのです。
しかし、そんな父も、日蓮正宗で葬儀をしていただくことができ、御僧侶の御祈
念と講中の皆さんの御題目のおかげで、辛うじて良い相になることができました


 ところが、信心することのできた母の場合は、四年の闘病(とうびょう)期間
中、ほとんど苦しむことがなく、それどころか、臨終が近づくにつれて穏(おだ
)やかな相になっていき、ついには成仏の相を現ずることができたのです。

 私は、この三人の姿を引き比べ、あらためて邪宗謗法の恐ろしさを思うと同時
に、「やはり、自ら御本尊様を信じて唱えた御題目の功徳は絶大なのだ」と確信
し、御本尊様に巡り会えた喜びをかみしめました。

 また、私自身、まだまだ至らないながらも仏道修行に励んでくる中で、本当に
考えられないような功徳をいただいてきました。

 入信前は、人と接することが苦手で、些細(ささい)なことで落ち込み、すぐ
に自殺を考えたりするような伏態だったのが、いつの間にか、周囲の人とも円満
に付き合うことができるようになり、今では、人から頼られ慕(した)われるこ
とさえあります。気がついたら、会話することも好きになっていました。

 また、両親の体質を受け継いだのか、小さい頃から病弱で、病名を挙げたら二
十を超えるくらいでしたが、仏道修行に励むにつれてどんどん健康になっていき
、今では病気らしい病気もなくなり、元気すぎるくらいの健康体になりました。

 とくに、入信して数年が経った頃、罪業が出たのでしょうか、父と同じ喘息(
ぜんそく)になった時はショックでしたが、発作のために毎日ニ時間ほどしか眠
れない状況の中、発作が起きるたびに御本尊様に向かって二時間・三時間と唱題
をし、回りの人を片っ端から折伏していったところ、二ヶ月でピタリと治ってし
まいました。

 さらに入信七年目には、驚くべきことが起こりました。小さい時からほとんど
聞こえなかった両耳のうち、なんと、左耳が完全に聞こえるようになっていたの
です。(大拍手)

 それは、本部で唱題していた時のことです。じつは、私は入信以来ずっと、難
聴のために皆さんの唱題に声を合わせることができずにいたのですが、たまたま
その時、どなたかから「Eさん、声が合うようになりましたね」と声を掛けられ
、そこで初めて、いつのまにか自分の耳が完全に聞こえるようになっていること
に気が付いたのでした。
 私は、嬉しくて有り難くて、心の底から御本尊様に御礼申し上げました。

 母の葬儀の際に久しぶりに会った叔父や叔母は、私が明るく、しっかりしてき
た、と驚き、喜んでくれました。

 御本尊様に出会えなかったら、また出会っても、創価学会で入信した父のよう
に、正しい信心の在り方を教えてもらえなかったら、今の私は絶対にありません
でした。正しい師のもとで、正しく信心させていただけることを、心から有り難
く思います。

 現在も、「絶対に創価学会を崩壊させるんだ」との想いで、毎日のように学会
員に対する折伏をしておりますが、昨年の総会以降、私の班では十五名の学会員
を正宗に帰伏させることができました。(拍手)

私が重点的に回っている地域の学会幹部の間では、「Eは有名な詐欺師(さぎし
)で、学会の本尊を破り歩いている」などと言われているらしいです。

 もちろん、デタラメもいいところですが、大聖人様は、
 「仏法の道理を人に語らむ者をば男女僧尼必ずにく(憎)むべし。よし、にく
まばにくめ、法華経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安等の金言に身をまかすべ
し。如説修行の人とは是なり」(御書九〇六ページ)と仰せられています。折伏
ゆえに悪口を言われれば、それが全て罪障消滅になるのですから、こんな有り難
いことはありません。

 これからも、大聖人様の御金言に身を任せ、しっかりと仏道修行に励んでまい
ります。ありがとうございました。(大拍手)

*尚、上記体験発表は、暁鐘編集室の承諾を得て蒼碧集9より引用しております。
 

体験発表館

 投稿者:HP執行部  投稿日:2009年 1月11日(日)22時54分54秒
  ここの掲示板では、日蓮正宗信徒(法華講員)の
信心による体験発表を掲載しています。
 

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