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顕正会員から法華講員へ

 投稿者:パール  投稿日:2012年 4月10日(火)23時42分40秒
  H支部 M.E
○○地方部第十六回総会、まことにおめでとうございます。
 私は平成二十一年七月、地区長のK.Kさんの折伏により入信いたしました。Kさんとは先輩後輩の仲でもあります。職場がお互いに近い距離にあったことから、再会となりました。

顕正会を止め
日蓮正宗へ

 私は顕正会に入った平成十七年頃から、仏法という言葉を知ることとなりました。顕正会では組長として、罪障消滅のためと広宣流布に向けて、ビデオ放映や集会に参加したりと活動にがんばっておりましたが、何かにつけおかしいと思うようになり、反発心が出てきてだんだん折伏活動ができなくなっていき、二、三年離れていました。そのような最中に、Kさんから度重なる電話や訪問がありました。

 申し訳ないと思いながらも耳を塞ぎ、自分のいる場所に間違いはないと思ってKさんの必死の折伏を素直に聞くことができず、顕正会にいることが大謗法であることにも気づかず、反発し続けておりました。

 二、三年経った頃、仏法の正邪を見きわめなければならない時がきました。義理の兄が脳幹梗塞により七年間寝たきり状態で、病気と戦って苦しんでおりましたが、悪い方へ進んでいるのが手に取るように判りました。そこでようやく、義姉と共にH寺に行くことにし、御住職にお会いすることができました。

 心中に恐しさと迷いがありながらでしたが、御住職様の力強い折伏を受け、「日蓮正宗が正しいと、確信を持ってやりなさい」という御指導に、素直にやってみようと決意ができました。

 顕正会では、仏法僧の三宝尊の話を聞くことなどなかったので、一つひとつが新鮮でした。それまではお寺という所の行事も判らずにいましたが、とにかくここで間違いないのだと、唱題して祈り続けました。

 私と義姉が入信して二カ月後の九月十二日に、義兄が亡くなりました。この義兄の葬儀を日蓮正宗で送れたことが、立派な折伏となりました。参列してくださった方々から創価学会ですかと尋ねられ、「いえ、違います。日蓮正宗です」との言葉を、何度となく堂々といえました。

 葬儀から納骨まで、かなりの期間を仕事に集中できなかったのですが、不思議にも二十年間のうちで最高の業績を上げることができ、感謝でいっぱいでした。

 また、その年の十二月に登山することとなりましたが、自宅を出る三時間前に、以前私が顕正会に入会させていたHさんという方から突然、電話が入りました。Hさんに、現在は顕正会を止めて日蓮正宗信徒となったことと、これから総本山に登山するところであることを話しました。私の帰りを待って入信するとHさんの約束を取りつけての登山出発でした。このことで、登山の大切さを判らせていただきました。

 御開扉で大御本尊様に御目通り申し上げ、Hさん一家の折伏と、必ずHさんと一緒に登山させていただくことをお約束し、下山の途に着きました。

 御本尊様はすぐに祈りを叶えてくださいました。それは、Hさんが年末に、西○○郡××町からご主人、娘さん二人を引き連れてH寺にいらして、一家四人全員の入信となったからです。

 しばらく会わない間に、Hさんは病気になってリンパを除去したそうで、後遺症で足がむくんだりして悩んでおりました。そのような体調の中でしたが登山にも臨み、本門戒壇の大御本尊様にお目通りが叶いました。一緒に御開扉を賜りながら、きっとHさんは御本尊様に導かれて登山できたのだと、言葉では言い表すことができない感激が込み上げてくるという体験をさせていただきました。

そして、Hさん一家の生活も、病気も解決しますよう、どうか救ってくださいと祈りました。また、義姉も確信の持てる信心ができますようにと、御本尊様に御祈念することができました。

 「仏法は体のごとし、世間はかげのごとし」(御書 一四六九ページ)との御金言を信じ、Hさん一家にも義姉にも、感動の体験をしてほしいと願うものです。
 さて、義兄の葬儀に参列してくださっていた中のTさんご夫妻は、義姉の元職場のオーナーさんでした。御住職様には、義姉から聞いていたTさんの現在の状況をお話し、折伏成就の御祈念をお願いいたしました。御住職様から、「すぐにお寺にいらっしゃれるよう御祈念いたします」と御指導をいただき、K地区長と共に、T家を折伏できますようにと御本尊様に必死で祈りました。

 しばらくしてお会いする機会があり、「もっと話を聞きたい」と言われたので、その足でお寺に向かうことになりました。そして、お寺で折伏座談会を開くこととし、新来者としてお連れできました。その結果、H講頭、地区長の応援もあり、Tさんご夫妻、娘さん二人、お孫さん二人の計六名の入信が叶いました。座談会には義姉も共に同席して、折伏できた喜びを御本尊様に感謝しました。
この大家族と共に私もがんばらなければと責任を感じ、決意を新たにしました。

 Tさんご夫婦も、忙しいコンビニエンスストアの勤務シフトを調整して登山が叶いました。体調も良いとは言えない中での登山でしたが、無事に帰ってくることができ、感謝でいっぱいでした。

入信した方々が登山・折伏に

 また、登山参詣の後、その功徳が確実に結果として顕れていることに驚きました。それは、登山から帰ったTさんが、従業員のMさんを幸せにしてあげたいとの一心で折伏に立ち上がったのです。Mさんをお寺にお連れしたTさんは、講頭、そしてK地区長にも手伝っていただき、入信させることができました。
Tさんは、ご自身の体験をもって折伏したい方の名前を次々と上げてきました。この熱意の冷めることのないよう、励まし合って折伏を進めていきたいと思います。

 Hさんはその後、病気であることを忘れるほど登山の回数を重ねております。最近は不調を訴えることもなく、ご自分の姉妹を救いたいと折伏に立ち上がりました。折伏に同行しながら、彼女の真剣な態度に感動しました。きっとお姉さんや妹さんに判ってもらえる日がくると信じ、励まし合っております。歓喜と感動が、実践行動に繋がっていくのだと確信しました。

 また、昨年十一月、以前入会させてそのまま顕正会に置き去りにしてきたMさんに話ができました。その日のうちにお寺にお連れでき、私はここで決めなければと思って、必死に折伏しました。そしてMさんは、顕正会を止めることを決意し、日蓬正宗に入信できました。素直な方なので、時間はかかっても共々に謗法の罪障消滅ができるよう、また、日蓬正宗の正しい仏法を一日も早く学ぶためにも、指導教師から片時も離れずに素直な信心をしていっていただこうと決意しております。

 入信して二年ほどしか経っておりませんでしたが、平成二十三年にM班の折伏誓願目標を達成できました。
これは、御本尊様の御力をいただいたことと、御住職の並々ならぬ御指導のお陰と思っております。また、講員一人ひとりが、登山など様々な体験もさせていただく中での感動をもって、素直に他人を救いたいと願い、異体同心して折伏のため活動した結果だったと思います。体験を通し、講頭が「中心につききる信心」とよくいうところの、御法主上人猊下に添い奉る信心が大事であることが、少しではありますが判ったような気がしました。

 平成二十四年に入り、お寺での唱題行が終わって帰ろうとしているとき、講頭から「Mさん、ちょっと時間をいただいていいですか」と聞かれ、「はい、大丈夫です」と返事をしました。

 講頭からは、「本年は、昨年と同じ失敗を繰り返すことはできません。何としても全班、一月中に一人の折伏をやり切らないと、四月までに五十パーセントの折伏を達成するのは、難しい」と話がありました。また、「御住職様の命がけの唱題と固い御決意にお応えできるときです。Mさん、あなたならできる。一月末までに話ができる人がいますか。すぐに行動できますか。私もがんばって結果を出すから、Mさんも結果を掴んで、御本尊様にご報告しましょう」と激励されました。

 必ず一月中に折伏をさせていただきますと祈って唱題していくと、浮かんだのが娘の友人のKさんでした。年末の大晦日から我が家に遊びに来て、不思議なことに元旦勤行に一緒に参詣することになったのです。
一月二十三日、娘は仕事を休めないので私がF県に行って折伏し、Kさんは素直に入信されました。

 元且に御住職より、「全班一月末までに折伏を」との御指導がありましたが、それにお応えでき、こうして本日、発表することができました。

 平成二十七年、日興上人御生誕七百七十年を期して法華講員の五十パーセント増、平成三十三年、宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年を期して法華講八十万人体勢との御命題達成に向けて、本年「実行前進の年」にふさわしく折伏に精進していくことをお誓いし、私の体験発表とさせていただきます。


 
 

【唱題の功徳】

 投稿者:HP執行部  投稿日:2012年 3月 3日(土)09時55分42秒
編集済
  『唱題』

 日寛上人が加賀信徒・松任治兵衛へ宛てられた御消息にこのような一文がありま
す。

 「さては前度下し奉りまいらせ候御本尊之御供養彼方此方より皆々相届け被入御念
候、御事候。殊松任殿老之いとまなき身本因妙一万遍御供養難有御事候かならずかな
らず信の一字こそ大事にて候。たとへ山のごとく財をつみ御供養候とも若信心なくは
せんなき事なるべし。たとへ一滴一塵なりとも信心の誠あらば大果報を得べし阿育王
の因縁なりと思ひ出られ候べく候。かならずかならず身のまづしきをなげくべからず
唯信心のまづしき事をなげくべけれ」

 私はこのお手紙を拝すると涙がとまらないのであります。御本尊様を日寛上人から
下附していただいたことへの御供養に、自分は貧しくて何もさしあげるものがない、
ただ「本因妙一万遍」、つまり一万遍の題目を唱えて御供養させていただきます、と
いう松任治兵衛さんの真情を思うと、私のように貧しさの極を生きてきた人間には、
痛いほど解るのであります。

 せめて人並みに御供養させていただこうという決意・思いはもちろん言うまでもな
く人並み以上であったでありましょう。それに対する日寛上人の御慈悲は「かならず
かならず身のまづしき事をなげくべからず唯信心のまづしき事をなげくべけれ」との
一文に凝縮されています。誠に誠に有り難い御言葉であります。又、お題目を「本因
妙」と仰せられしところに本宗の宗旨の根源も存することを知らなければならないと
思うのであります。

 本年初頭、御法主日顕上人猊下には「地涌讃徳」と題する詩を私達僧俗に賜わりま
した。

 霧立ちこめる人の世に

 日輪の徳あらわれて

 まことの我を開くこそ

 妙法受けしめぐみなれ

 とあります。「まことの我を開く」その道は唱題の二字に尽きるのであります。全
国の僧俗一同一結して一日二時間の唱題を唱えることの有り難さ…今この時にあたっ
て唱題行を仰せくだされた御法主上人猊下の御慈悲を深く感ずるのであります。

 さて私は過日あるお寺へお邪魔させていただきました折、経机にB4版の紙が置い
てありました。見るともなしに見ますと、このような一文でありました。

 唱題の功徳

一、法華の法門を聴聞すれば未だ発心 しない者も御本尊を拝む心がおきてくる

一、慈なき者には唱題の功徳によって慈心がおこる

一、他人の善事にねたみを生ずる者には唱題すれば随喜の心をおこさせる

一、貪欲の者には唱題の功徳によって供養の心をおこさせる

一、(橋-木+情-青)慢の者には唱題の功徳によって仏の戒めを守る心がおきてく


一、いかり多い者には唱題の功徳によって忍辱の心をおこさせる

一、修行を怠る者には唱題の功徳によって精進の心をおこさせる

一、余念雑念多い者は経文の如く唱題する事によって心静かに一心に唱題出来るよう
になる

一、おろかな者には唱題の功徳によって仏の智慧を得る事が出来る

一、まだ折伏の出来ない人でも唱題の功徳によって折伏をしようという心がおきてく


というものでありました。私には勝鬘夫人の釈尊への「十大受の誓」のように思わ
れ、懇願して一枚コピーをいただきました。それからずっと座右に置いています。

 
 思い起こせば若い日、父母に捨てられ、祖母と生きた日、信心七年目にして
両眼失明し、唱題をすればする程病状は悪化し、三カ月位したころ、申し訳ないことですが
信心しても大丈夫なのかなと不信を起こしました。そんな時、たまたま親類の人が来て、
「信心しても眼が見えなくなるのか」と言われた時、自分の信心の未熱さに気付き
「眼が見えなくても信心しているんだ、あなたは元気でなぜ信心しない」と折伏し、
三十分たらずで入信を決意させました。

 それからしばらくして、八十余才の祖母がある朝「お前を残しては死ねないから一
緒に死んでくれ」と言ったのです。その時私は「家には御本尊様がある、どこまでゆ
けるか唱題しよう」と言い、涙ながらに五十時間、夜も昼も唱題したのです。三日目
の朝、とうとう御本尊様の前に倒れ意識を失いました。何日かして病院へ行くと、
病院長は一目で「この病気は治りません」と言ったきりでした。

 私はその時、「あーこれは御本尊様が救ってくださるのだ」と、思わず駆けだした
い気持ちになりました。不思議にその日から薄皮をはぐように一日一日と快方に向か
い、そのうち朝と晩の区別がつくようになり、障子の組子が見えるようになったので
す。今はメガネもかけておりません。

 「病によりて道心はをこり候也」との御金言の如く、御本尊様に助けていただいた
のだから、と決意し、それから得度をし、今は日蓮正宗の僧侶の端っこに加えさせて
いただいているのであります。

 このような体験から唱題こそ一切の功徳があることを確信します。頑張ろう!全国
の我等法華講衆が頑張っています。日寛上人の仰せのように「信心のまづしき」者に
ならないように貫徹して、六万総会には晴れて全国の皆様と共に笑顔で「頑張っちゅ
うかネェー」と言葉を交わし、師法主上人猊下の御前に、そして御戒壇様のもとに集
おうではありませんか。

                  大白法 平成6年3月1日号より抜粋
 

大白法 H21・10・16号より

 投稿者:HP執行部  投稿日:2010年 1月10日(日)15時21分41秒
  息子が三歳児検診の際「発語が遅い」という診断で、さらに詳しく診察を受けた結果、「広汎性発達障害かも知れないので、発達センターに通ってみませんか」と言われ、目の前が真っ暗になりました。「広汎性発達障害」とはいわゆる「自閉症」です。
 単に発語が遅いだけなのに、自閉症という診断に納得がいきませんでした。発達センターの「三歳児だと『お菓子、ちょうだい』など二語文を中心に会話をします。お話だとお子さんは『ブー、パー』などの音で、『ブーブー、パパ』といった反復音がありません。検査をしてみないと判りませんが、言語に関しては一歳半ぐらいでしょう」という話にさらにショックで、「何が悪かったんだろう」と自分を責める毎日でした。そんなときに総本山第六十八世日如上人御代替慶祝登山でご登山させていただきました。
 御開扉のとき、「せめて反復音ができるようにしてください」とあふれる涙を拭うのも忘れるほど一生懸命御祈念しました。出口で息子を抱き抱えたとき、私の顔を見て「ママ」、主人を指差して「パパ」とはっきり言いました。びっくりして主人と顔を見合せ「ママ、パパって言ったよね」と確認しました。もう一度言わないかと息子に話しかけましたが言いません。しかし、「御本尊様が願いを叶えてくださった。御開扉の功徳ってすごい」と思いました。
 後日、面談で「異例の速さで単語が増えています。発音がはっきりしないながらも、クラスの子供たちとフルコーラスで歌を唄えるようになってきました」という話に喜びましたが、若干の介助が必要なため、通常の幼稚園への入園は園長先生次第。小学校入学のことも考えると、支援学級の幼稚園では、さらに他の子供より遅れてしまいます。市の規定で両方に申請できないと聞き、困っていました。
 そんなとき、「支部総登山の座談会の法話は、どんなテーマがよいか」という話に「子供に信心を躾けるとか、そのような法話はだめでしょうか」と言うと、御住職・今福永明御尊師が、「それは朝夕の勤行しかないんだよ。名前は言えなくても『南無妙法蓮華経』が言えれば大丈夫。君のところは大きな声で言っているじゃないか。必ず守ってもらえる。しっかりがんばりなさい」と御指導をいただき、支部総登山で「必ず守って戴ける信心をしないと」と決意して御開扉に臨み、通常の幼稚園への申請を決めました。
 入園審査のため、市教育委員会の面談を受けました。息子の今までになくはっきりと質問に答える姿に驚き、これも御開扉の功徳だと思いました。無事に通園が許され、思っていた以上に順調な通園生活に、センターの先生も驚いていました。
 その年の十一月、新たな問題が発生しました。息子が風邪をひき、いつまでも鼻だけがゴボゴボといった感じで詰まります。いくつも病院を替え調べましたが原因が判らず、どの先生も一様に風邪という診断でした。夜中になると鼻が詰まり目が覚めてしまうので、上体が高くなるようマットを入れたり、アロマオイルなどを使ってみました。何をしてもだめなときには私のほうが精神的に変になりそうで、口に枕を当て「ぎゃー」と思いっきり叫んだ後、二時間ぐらい子供を抱き抱えて「病気を治してください」と唱題すると、不思議に鼻が通って寝ました。
 翌年の三月には、目が赤くなっていたので眼科に行き、視力検査をすると両目で〇・四しか見えておらず、遠視が判りました。作業療法士の先生から「連動発達が遅れていた原因の一つでしょう。鼻も完治しないと集中力が低下し、小学校に入ってからの学習に支障が出る」という話がありました。
 なぜ私はこんな苦労をするのだろうか。いとこや弟の子供は普通なのに。少なくとも、いとこや弟夫婦よりお寺に多く参詣し、ご登山させていただいているはずなのに、何が違っているのだろうと思うと涙が止まりません。その日の御報恩御講で、
「このやまひは仏の御はからひか。(中略)病によりて道心はおこり候か」(御書 九〇〇㌻)
という御文があり、泣いても仕方ない、唱題しかないと思いました。
 亡き父が「親子三人でしっかり罪障を消滅できるよう信心に励まないといけないし、一生懸命しているからどんどん罪障が出てくる。それを乗り越えたときに、その体験で折伏させていただける。それが有り難いんだよ」と言ったことも思い出しました。父が亡くなったこともあり、少し信心に疑問を持っていた自分に気づき、反省しました。その後、視力は両目で〇・七になりました。
 九月の就学相談で「下駄箱や鞄は一年生の所属クラスに置き、国語や算数のみ支援学級を利用できる」という話でしたが、入学予定の小学校では「本校ではその形態はできません。私は、自立の第一歩は自分で登校できることだと思います。これは提案ですが、本校に通われ、勉強よりまず対人関係に力を注がれてはどうでしょう。勉強は週に一度、通級制度を使い補助できます」という校長先生の提案に主人も賛同し、通常クラスでの入学で申請しました。
 息子が小学校に入る今年からは、初登山会に参加させていただこうと決めていました。初登山会から帰って、鼻づまりの原因の一部は、スギ花粉だと判りました。薬も変わり多少楽になったようで、「今年のご登山は、何か違う」と実感しました。
 幸先のよいスタートと思った矢先に、幼稚園の担任の先生から息子の現実を理解して欲しいとの話があり、幼稚園に見学に行くと、できないことが多く何度も何度も諦めずにチャレンジする息子の姿に涙が止まりませんでした。「慶志くんはとても前向きでがんばり屋さんですから、予想以上に伸びています。器楽演奏も、慶志くんの場合リズムが合っていればよしとしています。ただ『嫌だ』ということをはっきり言わないので、いじめにつながる可能性も高い。困ったときやできないときも、指導者が気づかずに進んでしまうことが一番怖いんです。小学校は幼稚園のように待ってはくれません。最悪、四十人を一人の先生が対応します」という話でした。
 二月には、小学校の支援学級の先生も見学に来て、話し合いの場が設けられました。「お子さんの絵は頭足人と言って、頭から直接手足が描画されています。これは四歳児の絵です。二学年分の差がある場合、支援学級のほうが伸び伸び勉強できます。お母さんは、何を根拠に通常クラスでできると思いますか。無理に通常クラスに入れ、これ以上『できない』という苦しみを与えていいんでしょうか」という話でした。私の「広汎性発達障害かも知れないという話であって、確定の診断は付いていません。一パーセントでも可能性があれば、通常クラスで伸びてくれると信じています」という返事に、先生方は諦めた様子でした。
 入学前、センターの運動検査で小脳に障害がある可能性があるとの結果でした。「小脳は残念ながら治療方法がない」という話に「落ち込んでいる場合じゃない。ここまでいろいろなことが出るのは、大切な年だからだ。御本尊様に守って戴けるようしっかり御奉公しよう。そうすれば大丈夫」という妙な自信が涌いてきました。
 そんなとき、予定していなかった三月の記念支部総登山に参加させていただく話や、主人の両親が登山を決意し、主人の代わりに一緒に添書登山することになったりと、入学前の大事なときに三回も御開扉を受けさせていただけることになりました。特に主人の両親を、桜が満開であろう時期に案内できるのは、亡き父が「今行かないで、どうする」と背中を押してくれたように有り難く思いました。
 支部総登山で、バスから降りた途端、息子は鼻水が止まりません。「総本山は杉が一杯だから、花粉症じゃない人でもなるのよ」という話に慌ててマスクをしましたが、もう止まりません。
 翌日、内科では花粉症との診断でしたが、耳鼻科では副鼻腔炎の可能性があると言われ、その対応薬を飲んだ途端、鼻から黄色い痰のような鼻汁がどんどん出てきました。その週の金曜日は、主人の両親と添書登山です。御開扉直前まで黄色い鼻汁が出ていましたが、御開扉の間は不思議と鼻をかまず、帰りはかなり回数も少なくなりました。月曜日には鼻づまりもなく、レントゲンの結果、完治しているとの話です。



 ご登山の功徳をさらに実感したのは、帰って三日後の入学式でした。仮入学の時に「八十三名以上でないと三クラスになりません。現状は二クラスの可能性が非常に高い」という校長先生の話でしたが、総人数七十六名ながら三クラスで、息子のクラスは一番少ない二十五名です。ご登山の功徳は、まだまだ続きます。クラス内の座席も一番前の教壇横。教室移動は、いつも先生と手をつないでの移動です。そして、なんと昨年幼稚園に小学校からの交換研修で年長組を担当していた先生が、転勤で今回、担任となりました。
 信心していない人に話をすると「たまたま薬が合ったのよ」「配慮してもらえてよかったね」などと言いますが、一年半苦しんだ鼻づまりが治り、三クラスとなり、教室でも移動でも先生の側。多くの先生がいらっしゃる中で、昨年お世話になった幼稚園の先生が担任。こんなに偶然は重なりません。御本尊様のお陰、御開扉の功徳としか思えません。有り難くて涙が止まりませんでした。
 この話を座談会ですると、副鼻腔炎の苦しさや治療がとても痛くて辛いと聞き、薬のみで完治したことに感謝しました。また、息子が大きな功徳を戴いたので、ぜひご登山して欲しいと話すと、三浦さんに「息子さんもそうだけど、今まで悩んできたお母さんの悩みをすべて解消していただいたことが有り難いよね」と言われ、私もこんな大きな功徳を戴いたんだと気づきました。そのとき、順正寺支部の平田講頭さんが以前、「今年は功徳を功徳と思わせない、有り難いと思わせない魔がある。これは功徳を実感しないことになるのだから、この魔が一番怖い」と話されていたことを思い出し、自分も大功徳を戴いていることに気づきました。
 先生の家庭訪問の際、「こんなにスムーズにスタートできるとは思っていませんでした。他の子の世話をする余裕もあります。先のことは判りませんが、今は安心していただいて大丈夫」という嬉しいお話でした。
 入学当時は、平仮名がまったく読めず、朝夕の勤行は音で覚えていました。幼稚園の年長から少しずつ覚え、朝の勤行を四十五分かけて行い学校に出発です。母は「あんただって小学校後半ぐらいからしかできなかったんだから、ギャーギャー言わないでも」と言いますが、私がそうだったからこそと、親子で泣くこともありますが続けています。
 五月の支部総登山後には、はっきり読める文字が何個か出てきて、先生が「今日は、はっきり理解している文字が何文字もありました」と、不思議そうでした。視力も両目で一・〇になりました。
 七月の大結集総会にも、支部で現地保育ができることになり、参加が叶いました。八月には青年部の添書登山に親子で参加し、二回御開扉を受けさせていただけました。すると九月の検診で右目一・五、左目一・二でした。学校でも、希望してもなかなか叶わなかった校内通級が、「日常生活は問題なくできている。教室移動も一人で大丈夫そうですから、この二学期末からできそうです」と降って涌いたような話に、ただ驚くばかりです。御住職が、御法主日如上人猊下の、
「『此の砌に望まん輩は無始の罪障忽ちに消滅し、三業の悪転じて三徳を成せん』(御書一五六九㌻)と仰せの如く、登山参詣の功徳は計り知れないものがあり、特に本年における登山にはそれぞれ重要な意義があり、また功徳も格別であります」
(大白法 七四五号)
の御指南を引かれて「本年のご登山の功徳は格別なんです」とよく御指導されますが、まさにその通りです。ご登山するたびに悩みを解決して戴き、身をもって功徳を体験しました。
 同学年のお子さんに比べると、解決したハードルはわずかですが、日々寺院参詣・勤行唱題・折伏・育成活動を根本に、これからも家族三人力を合わせ、御奉公させていただきます。

                    (大白法及び専妙寺支部HPより転載)
 

大白法 H21・3・1号より

 投稿者:HP執行部  投稿日:2010年 1月10日(日)15時16分10秒
編集済
  今から九年前の十二月に、長女が個人病院に診察を受けに行ったときに、同行した私も思い当たる体の異常があったので診察をしてもらいました。先生は何も述べずに、明日もう一度精密検査をするので来てくださいと言われました。地元の総合病院への紹介状をいただき、十二月二十五日に再度診察を受けました。結果は直腸ガンです。誰もいない病院の待合の廊下の椅子に座り、家族で涙を流しました。
 年明けの一月六日に手術と決まりました。その日は、私の四十二歳の誕生日でもあります。よりによってこんな日にと思いました。
 正月の三が日を終え四日に入院し、六日に手術です。手術は無事に終わり術後の経過も良好、一カ月間の入院で済みました。この間御住職・猪又法礼御尊師は幾度となく病室へ見舞いに来て励ましのお言葉をくださいました。
 退院してからも定期健診だけは欠かさずに行き、主治医も何もなく五年経てば大丈夫でしょうと言ってくれていました。
 その五年が過ぎ、もうこれで大丈夫と思っていたのに六年目の七月、PET検査でガンの再発と肺への転移ガンが見つかりました。今から三年前です。

余命宣告、必ず克服する決意
 転移の肺ガンはやっかいなことに肺の表面ではなく奥の付け根部分の硬い場所にできているとのことで、翌八月から一カ月間毎日のように放射線治療、九月からは抗ガン剤治療となったのです。
 この抗ガン剤治療は四十八時間の点滴で行います。月二回・隔週の金、土、日と入院し、もう五十一回抗ガン剤を受けています。吐き気、手足のしびれ、全身のだるさ、味覚障害、食欲不振等、様々の副作用があります。
 金、土と仕事を休むため、仕事は溜まります。退院後の月曜日は一番倦怠感がひどく、吐き気も続いて全く食べられません。でも今日まで自営の仕事は一日も休まず、乗り切ってきました。また、他の人と比べると不思議と副作用も比較的軽く済んでいます。これも、御本尊様のお陰と感謝をしている次第です。
 そんな日々の中、「もっと大きな病院で診てもらったら」という姉の勧めで、一昨年の五月三十一日に大阪、森ノ宮の成人病センターで診察を受けました。結果は、末期ガンのステージ四、何も治療をしなかったら余命八カ月、抗ガン剤治療をしても、あと二十カ月と宣告されました。
 このとき頭をよぎったのは、「延命治療の抗ガン剤を受けても二十カ月しか生きられないのか。抗ガン剤で苦しみながら二十カ月生きるか、抗ガン剤を受けず苦しまないで八カ月の命を全うするか、どちらかなんだな」と、あまりのショックで頭の中が真っ白になり、どうやって病院の四階駐車場まで辿り着いたか、はっきり覚えていません。

「家で死ぬか病院で死ぬか」死の宣告からさらに寿命を戴く
 ただ、後ろから歩いてくる家内の「気をしっかり持たなんだら」という言葉だけが聞こえてきました。でもはっきりと宣告をしてくれたお陰で心も定まりました。「抗ガン剤を受け、定められた二十カ月の間に結果を出すのだ。御本尊様にすべてを預けよう。とにかく乗り切ろう。信心を試されているのだ。今までにない強い信心で、必ず実証を示すぞ」と深く御本尊様に誓いました。毎日の勤行・唱題も常に今日が最後という気持ちで真剣に祈り、仕事も同じ気持ちでがんばり、毎晩の唱題を終えた後は今日一日元気で過ごせたことに心の底から感謝の御礼をさせていただいています。
 そんな中、御住職様のお計らいで六月二十九日に御秘符を戴き、我が家の御本尊様にお供えをし、丑寅勤行を七月三日まで行ってから頂戴いたしました。「絶対にガンに勝つ」と強く心を定めた次第です。
 さて、昨年の二月、どこで私の病状を聞きつけたか、創価学会のゾーンの幹部たちが仕事中に、また、婦人部員が夜にと、やって来るようになりました。特にゾーンの幹部が来たときは、納期の迫った仕事で忙しい最中で、二週間後に話を聞くからと言って帰ってもらいました。
 そして二週間後、こちらから時間を設定し学会の人に電話を入れました。相手もこの日を待ち望んでいたのか、すぐさま今晩行きますと強い返事がきました。私も絶対に学会の間違っているところを強く破折するぞと思って、その夜七時の待ち合わせ時間を待ちましたが、とうとう幹部たちは来ませんでした。「行けない」という電話もなかったのです。毎日残業という最中に貴重な時間を作ったのにすっぽかされ、怒り心頭です。ゾーンの幹部宅へ電話を入れるとちょうど本人が出たので、徹底的に破折し、信心の姿勢がなっていないと強く糾しました。どのようにしても、こちらの正法を信じ燃える強い今の生命力には、勝てるわけはありません。
 さて、昨年の三月頃から、病状に変化が現れました。一昨年の六月には「頭の明白なうちに、病院で死ぬか家で死ぬか、決めておいたほうがよい。転移の肺ガンも手術はできません」と言っていた主治医が、昨年の三月中旬に抗ガン剤を入れている病室へ来て、「手術をしてみよう」と言ってくれました。早速四月八日に手術を行い、肺ガンの病巣摘出に成功しました。退院後も続く抗ガン剤に負けず今日まで乗り切ってきました。
 つい先日も主治医が、「こんなに体力のある強い人、今までに見たことがない。抗ガン剤が打てるかどうかの隔週の血液検査でも、白血球や血小板の数値が二週間で正帯に戻っている」と感心していました。ポートという取り付け口を入れずに腕だけの点滴でこんなに続くのはまれと言っていました。私には御本尊様がついているから、通常の人とは違う体なんだと、心の中で叫んでいました。
 一昨年六月に家族で添書登山をし、昨年も八月に家族で登山させていただきました。健康であればこそ総本山へ参詣できます。本年も『立正安国論』正義顕揚七百五十年の記念総登山へお詣りして元気であることを大御本尊様にご報告申し上げたい、毎年続けるんだと、強く心に思っています。

元気な体で使命に臨む
 さて、一昨年、抗ガン剤治療をしても余命.二十カ月と宣告されたその最終日が、正しく、本年一月です。本来ならは今月、私は死ぬ予定になっています。いや、もう死んでいても不思議ではありません。なぜならば、私と同じように抗ガン剤治寮を始め、病院で出会うたびに励ましあった何人もの人が亡くなっていくのを目の当たりにしているからです。
 今の私を見て、皆さん、私が死ぬように思えますか。このように元気です。
 私には、家族を守る使命があります。折伏をしなくてはいけない使命があります。宝相寺興隆のためにがんばる使命があります。死ぬことはできません。
 昨年の十二月にも学会の婦人部員たちが、私の様子を見に二度訪問してきました。私の弱っている姿を期待していたのでしょうけど、この、ように元気です。くだらない、信心からかけ離れた筋の通らない埋諭しか話せず、全く相手にするだけ時間の無駄でした。「創価学会が主で、本山は従だ」と言うのです。本末転倒も甚だしい、開いた口が塞がりません。学会にはもう信心がありません。早くそのことに気づいて、学会員には本当の信心に目覚めていただきたいものです。
 最後になりましたが、最新の私のガン報告です。
 昨年の暮れに和歌山市内の向陽病院でPET検査を受けました。その結果を本年一月七日に社会保険紀南病院で聞いたのです。PET検査の画像を見なから説明を受けました。自宅では家内がずっと御題目を唱え、私も心の中でずっと御題目を唱えていました
 結果は、PET検査ではガンが見つかればその部分が光って映りますが、全く光らず「ガン」と呼べるものがないと言ってくれました。思わず、心の中で「ガンに勝った、御本尊様ありがとうございます」と感謝をしていました。
 苦しさに耐えた二年四カ月、合計五十一回の抗ガン剤の点滴ともさようならです。何と不思議にも五十一回の抗ガン剤は本年一月六日、私の五十一歳の誕生日で、年の数と一緒です。死の宣告をされていたこの一月に、私は生き返ったのです。御本尊様の御力は本当にすごい、余命を宣告された末期ガンでも克服できるのだと大確信をした次第です。
『崇峻天皇御書』に日く、
「人身は受けがたし、爪の上の土。人身は持ちがたし、草の上の露。百二十まで持ちて名をくたして死せんよりは、生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ。中務三郎左衛門尉は主の御ためにも、仏法の御ためにも、世間の心ねもよかりけりよかりけりと、鎌倉の人々の口にうたはれ給へ。穴腎穴賢。蔵の財よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり。此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給ふべし」(御書一一七三)
 私の一番大好きな御書です。十七歳のときにこの御文に出会い、信心に目覚めました。闘病体験を通して、この御文を心をもって読むことができています。
 これからますます、再度与えられた命をもって御本尊様にお仕えして、また微々たる力ではございますが日蓮正宗興隆のため、さらなる折はに命をかけてがんばってまいりますので、法華講の皆さん共々にがんばりましょう。
 今から九年前、主人が直腸ガンと宣告されたのが縁で私は、まじめに信心に向き合い、白身の宿業の深さとの闘いを始めたのです。
 平成十二年の一月六日に無事、主人の手術は成功しました。
 それから数年の間に、十年来の友人の杉原さんとその娘・田ノ岡さんを折伏させていただき、入信してくれました。
 さて、主人のガンは六年目にして再発、さらに肺への転移が、PET検査で見つかったのです。私は、一生懸命に信心をしていたのになぜこのような結果になってしまったのかと、悩み苦しみました。御住職・猪又法礼御尊師、奥様には常々、励ましていただきました。
 今は信心を試されているのだと強く感じてから、本当に私の命が変わり、絶対に主人のガンを治してみせると決心し、日に日に、今まで味わったことのない歓喜が涌き上がってきました。そして、一昨年の八月には主人の兄と甥が勧誠式をお受けできました。
 一時間、二時間、三時間と、とにかく時間があれば御本尊様の前に座り、御題目を唱えています。そのようにして家族一丸となってがんばっているとき、転移している肺ガンは手術ができないと言われていたのが、去年の三月に、再発の直腸ガンは活動しているが安定しているので、転移の肺ガンを手術してみましょうと言っていただき四月に手術を行いました。手術日の手術時間に、宝相寺支部の皆さんに御題目を唱えていただき、無事に病巣を全部摘出できました。
 去年八月に主人の無事手術の御礼と、一年間留学していた高校二年の次女の無事帰国の御礼の登山を家族全員でさせていただきました。その際、今度は母を連れて来てあげたいと願って帰ってきました。
 それから数日後、何と母のほうから信心をしたいと言ってきたのです七十年も地元の寺で熱心に信心していた母が日蓮正宗に入信するなんて、夢にも思っていませんでした。九月に母と姉が御授戒をお受けできましたl
 そして、十月の支部総登山に、私と次女と共に参加した母は、八十九歳の高齢にもかかわらず、丑寅勤行、広布唱題会、御開扉と、すべての行事に元気に参加できました。
 十月十二日、母は御本尊様を御下付戴き、御住職様、講中の皆さんと一緒に、母の家へ御本尊様を御安置することができました。母は喜びに満ちた日々を過ごしており、姉も前より体の調子がよくなり喜んでいます。さらに驚いたことは、九十三歳になる母の姉が、同じ信心をしたいと言ってくれました。
 昨年、今日の体験発表が決まったとき、絶対に一世帯の折伏をして本日を迎えたいと強く思い、御題目も年頭より二百万遍唱えると決意し毎日、二、三時間唱えています。
 その結果、先週の御報恩御講の日、大阪に住む主人の甥を折伏できました。この日は、主人の兄、奈良に住む主人の両親も宝相寺へ駆けつけてくれました。現在私は、毎日の朝夕の勤行のとき、私に使命をくださいと願い、十人以上の下種先を御祈念しています。
 私がいつも励みにしている御書の一節がございます。
「大事には小瑞なし、大悪をこれば大善きたる」(御書 七九六)
です。主人のガンは大悪ですが、何も嘆くことはありません。
 ここで、私の不思議な体験があります。御題目を真剣に唱えているとき、御本尊様の「泣かないで泣かないで。笑って笑って」という御声がはっきり聞こえてきたのです。泣いてなんかいられない、よい結果を必ず出すんだから、御本尊様が必ず証明してくださるんだから悲観せず明るくがんばっていこうと、さらなる勇気が涌いてきたことがありました。
 今回、主人のガン闘病に家族で真剣に取り組んでいく中でたくさんの功徳を戴きました。娘の大学入試もストレートに志望大学に決まり、自営の仕事も順調で、忙しくて依頼を断っているくらいです。本当に毎日が充実しています。
 今年もますます、下種、折伏をして広宣流布をめざして功徳の実証を示していきたいと思っています。

                           (大白法及び専妙寺支部HPより転載)
 

蒼碧集9より体験発表…【4】

 投稿者:HP執行部  投稿日:2009年 3月 7日(土)16時39分0秒
 
護法の一念で

悪質な進行癌を克服

S寺法華講 K.K

(平成十年五月二十四日)

本日は、妙観講第二十回総会にお招きいただき、また、この記念すべき総会で、
私に体験を述べさせていただく機会を与えられましたことは、光栄の極みです。
まことにありがとうございます。


私は、昭和三十六年、五歳の時に、創価学会員として日蓮正宗に入信いたしました。
そして、父母と共に、熱心に活動する学会っ子として育ってまいりました。

そんななか、父が学会活動中に脳内出血で倒れ、事業の精算を余儀なくされたり、
また、僅かばかり残ったお金を、同志である学会員に騙し取られて一文無しになって
しまうなど、様々なできごとが続きました。
さらに、私が一生懸命、学会活動をすればするほど、
創価学会の危険な体質を見せつけられ、ついに平成二年二月、御法主上人猊下のもとで
正しい信心をしたい、との思いで、地域の同志達とともに創価学会を脱会いたしました。



私の脱会は、県総合女子部長、県主任部長という要職を経験した学会職員や、
地域の男子部幹部を、多数巻き込んでの脱会でありましたので、
学会からの憎しみが集中しました。

 例えば、私を呪う唱題表が配布されたり、道ですれ違った見ず知らずの小学生までが
私を誹謗したり、また、近年の学会幹部の話によると、私を殺してもいい、
と考えている者までいるそうです。

 それでも、怯むことなく学会との闘いを続けていきましたところ、
平成八年の暮れより、学会怪文書『勝ち鬨』が、嘘と捏造の記事をもって、
私の誹謗中傷を連載で始め、全国に配布いたしました。



 明けて平成九年になりますと、学会は、この『勝ち鬨』に加え、
県青年部長名で私を中傷する変態文書を作成し、各所に配布する、
という馬鹿げた行為を始めました。

 この時期は、ちょうど仕事の面においても、業界自体が平成不況の影響を受け、
年間の商い高が半分になったとも言われている状況でしたので、私の経営する会社も、
立て直しに四苦八苦している、たいへん多忙な時でありました。



 私は、仕事がこんな大変な時に、学会も厄介なことをしてくれた、と思いましたが、
その時に、妙観講のS副講頭から、「これは折伏ゆえに起きた難なのですから、
かえって罪障消滅ができて、良くなりますよ」との話がありました。
今になって思えば、本当に、そのとおりの結果となっております。


 ところで私は、学会男子部だった時代に、きわめて重い糖尿病を患いました。
その糖尿病を引きずったまま、それ以外にも複数の病を抱えてしまい、
長い年月にわたって、毎月病院へ行き、常に医者に管理されている状態でした。

 そんな体の状態でも、食べることと飲むことが大好きで、酒の量を減らすことも、
食事の量を減らすこともできず、お酒にいたっては、どれほど多忙であっても、毎晩、缶ビール二本、冷酒二本、ウィスキーの水割り四杯、そして仕上げはワインか焼酎をと、まるで浴びるがごとく飲み続けていました。

 医者からは「このままでは、間違いなく五年前後で死ぬことになりますよ」と
警告されましたが、私は、「酒を止めるのなら死んだと同じですから」と言って、
まったく酒を減らしませんでした。



 こんな状態ですから、私は病院から、最低年一回の胃カメラを義務付けられています。

 この時も、四月までには必ず胃カメラを飲むように、と指示されていたのですが、
学会のバラ撒く怪文書への対応と、仕事の立て直しに追われ、
ついつい時間を惜しんで胃カメラを飲まずにいたのです。

 それでも、なんとか夏頃までには胃カメラでの検査をしよう、と考えておりましたが、
夏になると、学会は、今度は『聖教新聞』を使い、実名入りで私を誹謗中傷してきました。

 私は、この悪質な『聖教新聞』の行為に対し、弁護士とも綿密な打ち合わせの上、
甲府地検に刑事告訴を行ない、続いて学会怪文書『勝ち鬨』に対しても
刑事告訴を行ないました。



 そんな関係上、胃カメラでの検査は、大幅に遅れて十月になったのです。

 その時の検査は、いつもより時間が長い上に、途中、慌てて専門医を
呼ぶ声などが聞こえ、さらには「生検、生検」という言葉が妙に気にかかりました。
生検というのは、御承知のように、肝臓とか胃の細胞を直接取って検査することです。

終了後、検査した医師より、「潰瘍がありましたが、心配はないと思います。
いちおう、その部分の細胞を取って検査に回しておきました」との説明があり、
私はすっかり安心していました。

 ところが、数日後、病院より突然電話があって、
「家族の方と来てください」とのことでした。「もしや」と不安を募らせながら、
指定された時間に妻と二人で病院に行き、詳しい説明を聞きました。

 医師が困惑した顔で言葉を選びながら話す様子に、
私は、「つまり、癌ですか?私は信仰を持っていますので、
ハッキリ全てを話してください」とお願いしました。

 すると医師の回答は、「かなり悪質な癌で、それも極めて危険な状態であり、
早急に手術を要する」との内容でした。

 その時、看護師さんには、私が何の動揺もしていないように見えたらしく、
「これほど悪質な癌を告知されたにも拘わらず、
まったく動揺していない方を初めて見ました。何をされているのですか?」

と尋ねてきましたので、私は、日蓮正宗の信心をしていること、
聖教新聞を刑事告訴していること、さらに創価学会の反社会性を語り、
病院としての今後の配慮をお願いしました。

 それから私は、真っ先にS寺へ向かい、御住職に病気のことを報告し、
今後のことについて種々御指導をいただきました。

 しかし、何を報告して、どんな御指導をいただいたか、よく覚えていません。
とにかく私は、「死を迎えるまで講頭として恥ずかしくない信仰をしよう」と、
もう死を迎えることで頭がいっぱいだったのです。



 S寺を出て家路に向かう途中、共に学会に対して闘ってきた大草講頭や
S副講頭にとにかく連絡しなければと思い、自動車電話でS副講頭に連絡をいたしました。

 夜遅くのことで、しかも遠い道程であるにもかかわらず、大草講頭とS副講頭は
「とにかく、すぐ行くから」と、我が家に駆けつけてくださいました。

 大草講頭には、本当に細かなところまで激励をしていただき、
最後には「Kさん、順番が違いますよ。僕が死んでからKさんが死ぬのです。
そういう約束だったはずですよ」と励ましてくださり、S副講頭は、
「いまKさんに死なれたら困るんです」と涙ながらに語られました。

私は、仮に死ぬことになっても、本当に信頼できる人たちと出会うことが
できたことを心から喜び、涙を抑えるのに必死でありました。



翌日、本山へ向かう私の車に大草講頭から電話がありました。大草講頭は、
まるで自分のことのように、朝から八方手をつくし、有名な医者の手配をして
くださっていたのです。

紹介していただいた医師は、手術しないで癌を治すことで有名な方でありましたが、
私を検査した結果、「かなり危険な状態になっているかもしれない。
即刻、もう一度胃カメラを飲んで、検査結果によっては、即手術だ」と言われ、
設備と人材の整った東京の大学病院をその場で紹介し、
担当医師まで指名してくださいました。



こうして私は、紹介された医師の手で、再び胃カメラでの検査を受けました。
ところが、甲府の病院で検査した時にあった潰瘍が、全く消滅しており、
癌もどこにあるのか、見当たらないというのです。それでも疑わしい部分の細胞を取り、
病理検査に回し、検査結果は後日ということになりました。

 検査結果を待つ、ある日のことでした。仕事で富士宮へ向かう途中、
突然、涙が溢れてきました。


 そして、「これは罰だ。脱会した時以来、御法主上人猊下に
ひたすら御奉公すべき身であったのに、いつ死んだっていい、などと自分の身も
省みずに暮らしていた罰だ。自分の役目を疎かにしていた罰だ」と、
頭の中に今までの様々なできごとが浮かんできました。

 体内の水分がなくなるのではないかと思うほど涙が出てきました。
そしていつのまにか、初めて真剣に「御本尊様、私を救ってください。助けてください」と、
必死に泣きながらお題目をあげていました。

 この日から私は、御本尊様、御法主上人猊下にもっともっと御奉公をしたい、
と真剣に祈るようになったのです。



 検査結果が出るまでに、御法主上人猊下の北海道旭川への御親教などがありましたが、
家族や周りの者は、私の身体を気遣い、御親教へ行くことを止めました。しかし私は、
今後、許される限り最後の最後まで、猊下のお側で御奉公させていただくんだ、
との決意でお供させていただきました。

 御親教から戻ってきた日、検査結果についての連絡があり、指定された日に結果を
聞きに行きましたところ、やはり、悪質な癌で即手術ということになり、
大学病院へ入院となりました。



 手術は、七時間以上もかかる大手術となりました。手術中、S寺では、
もったいなくも御住職が有志達とともに唱題をしてくださいました。

 また、大草講頭より私の病のことを聞かれた小川只道御尊師は「僕も病院へ行くよ」と
心配してくださり、心よりありがたく思いました。

 そして、多くの方々が見守ってくださる中、手術は大成功いたしました。
困難な手術であったにもかかわらず、術後の経過は医師も驚くほど順調で、
術後二日目から歩き出し、きわめて早い退院となりました。

 癌で胃を全部摘出した場合、その後の生活が非常に大変であるとよく聞きますが、
私の場合は三度の食事もキチンと取れますし、社会生活にさほど不便を感じておりません。
退院してきてすぐ、取引先との中華料理の食事会がありましたが、
皆さん私の病気にまったく気付かず、胃のない私に向かって
「相変わらず胃腸が丈夫ですね」などと言われ、返答に困ったほどです。



 今、癌告知から現在までを振り返ってみますと、御本尊様のお力に驚くばかりであります。

 まず、私の癌は、表には現われないために発見がじつに困難で、
しかも進行がかなり早い悪質な癌でした。そのため、私と同じくらいの年齢で、
これにかかった人は、発見されたときには、ほとんど全てのケースが手遅れだったそうであります。もし、あの時、学会との闘いがなく、予定どおり四月の時点で胃カメラを飲んでいたら、痛が小さすぎて絶対に発見されなかったそうであります。また十月の時点でも、たまたま潰瘍が発見されなければ、見逃がしていただろう、とのことであります。

 癌発見のきっかけとなった潰瘍についても、不思議なことに、
最初の病院での検査の時に出てきたのみで、
数日後の検査では姿形がまったくありませんでした。
それは、まるで、臓器の中で浸潤を続けている癌細胞の存在を知らせるために、
出てきたようなものだったのです。



 このような奇跡的な発見、そして手術の大成功、これだけでも御本尊様の大功徳には
感謝申し上げるばかりですが、さらに「このままでは、
間違いなく五年前後で死にますよ」と医師に断言されていた糖尿病の数値も、完全に正常に戻り、他の持病も含めて、この癌との闘いの中ですべて治ってしまったのであります。

 入院する前、御住職に、「許されるのであれは、もし、生きて帰ってこれた暁には、
来年の妙観講の総会で体験発表をさせていただきたい」と、ご相談しました。

 御住職は快諾してくださりながらも、他の講中の総会で体験を述べるなど、
失礼にあたらないか、と御心配されていました。私は、「大草講頭を先頭に、
学会と最前線で闘っている妙観講の方々の前で、体験を発表させていただきたいのです」と
申し上げ、また、その旨を大草講頭にもお話いたしました。



 そして本日、生きて帰り、こうして皆様の前で体験発表させていただくことができました。

 これもひとえに、大草講頭、S副講頭並びに多くの妙観講の皆様のお力添えが
あったからであります。

 先日、癌再発の検診を受けましたところ、
ありとあらゆる検査数値が正常でありました。
しかし、再発率が非常に高い悪質な癌でありますから、けっして油断はしておりません。
日蓮大聖人様は、「病あれは死ぬべしという事不定なり。
又このやまひは仏の御はからひか。そのゆへは浄名経・捏磐経には病ある人、
仏になるべきよしとかれて侯。病によりて道心はおこり候か」と仰せられております。



 これからも油断・怠りなく、御本尊様に救っていただいたこの命で、
大御本尊様と御法主上人猊下に対し奉り、妙観講の皆様に負けぬよう、
そして妙観講と共に、さらなる御奉公をしてまいる決意であります。(大拍手)


*上記体験発表は、暁鐘編集室の承諾を得て蒼碧集9より引用しております。
 

蒼碧集9より体験発表…【3】

 投稿者:HP執行部  投稿日:2009年 2月16日(月)20時43分53秒
編集済
 
転重軽受の実証!

いま噛みしめる妙法の功力

H.A

私は、昭和六十二年に入信し、今年で十八年目になります。
本日は、入信後、両親から猛烈な反対を受けたことと、それらを乗り越えてきたときに
頂戴した功徳の体験を発表させていただきます。

 私の実家は、祖父の代から仙台市内にガソリンスタンドや輸送所などを持っており、
父の代には、さらに新規事業を立ち上げて、東北六県に店舗を広げたり、
ビルを建てるなどして、そのまま順調にいくかに見えておりました。

 しかし、今思えば、それは砂上の楼閣のようなものであり、私達一家は、
転落の原因を日々に積んでいることを気付かずにいたのでした。
といいますのも、実家の宗旨は禅宗で、実家の敷地には祖父の代から邪宗の社が
祭られているほど、邪宗に深く関わってきたのです。

そしてまた、創価学会が日蓮正宗の信徒団体だった当時、両親は、
近所の学会員からたびたび仏法の話を聞いていたようですが、それに強く反発して、
悪口を言っておりました。

 私自身も、十八の時、進学のために上京してからは、都内に住む学会員のいとこから
座談会に誘われるなど、たびたび信心の話をされましたが、その学会の座談会の
内容というのは、山本リンダが来て、涙を流しながら「池田センセーは素晴らしい」と
話す体験談や、池田の前で涙を流しながら行なう文化祭や体育祭の
ビデオ上映といったもので、とても信仰する気にはなれませんでした。

 そして、大学の卒業を控えたある日、私は、親戚からたいへんショッキングな
知らせを受けたのです。それは、「父が不渡り手形を出してしまい、
会社が倒産して、ヤクザに追われ、身を隠さなければならなくなった」というものでした。

 その時は本当に心配しましたが、それでも、私をピアニストにすることが
夢だった母の希望で、音大を卒業した私はヨーロッパに留学しました。
 そして、二年半の留学を終えて帰国したところ、両親は、事業も、財産も、
住む家までも失ってしまっていました。

 また、私自身は、東京での生活を再スタートさせたものの、ピアニストを
目ざしながら自活していく道は、そうそうたやすいものではなく、
高校や大学の非常勤講師をしても、マンションの家賃を払えばほとんど手元に
残らない程度の収入しかありませんでした。
 足りない分は、何とか母が仕送りしてくれましたが、いつも経済的に苦しく、
その上、深刻な対人関係の悩みが重なって、私の生活は八方塞がりになってしまいました.

 そのような中の昭和六十二年、妙観講のS.Kさんから折伏を受け、
ようやく日蓮正宗に入信することができたのです。
入信してすぐに、この信心は本物だと確信した私は、先輩方から教えられたとおり、
身の回りの友人・知人、職場の同僚や両親などを次々と折伏していきました。

 しかし、期待とは裏腹に、折伏した人はことごとく仏法を嫌い、
はとんどの人達が、「二度と連絡しないでくれ」と言って離れていってしまいました。
 中でも、両親の反対は尋常ではなく、仏法の話をする私に対して、
まるで人が違ったように、殴ったり敵ったりしてきたのです。
灰皿を思いきり投げつけられたり、棒で叩かれたり、髪を引っ張られたりしたこともあり、
あげくは周りの人達に「娘は気が狂った」と言いふらされました。

 そして、突然上京してきた両親は、
「信仰をやめないのなら、親子の緑を切る」と言って、信仰をやめるか、または、
遺産相統権を全て放棄するか、どちらをとるか、と迫ってきたのです。
もちろん、信心をやめることなど、できるはずもありません。
私が相続を放棄することによって、少しは両親が冷静になって、
話を聞けるようになってくれれば、という思いもあり、
私は相続放棄の書類に署名・捺印しました。

 ところが、私が信仰をやめないと知った両親は、
今度は、「御住職に直談判をする」と言って、理境妨に乗り込んでしまったのです。
その時は、小川御住職様がうまく取りなしてくださいましたが、
本当に御迷惑をお掛けしてしまいました。

 その後、両親は、私から折伏されるのを嫌って内緒で引っ越してしまい、
一時、両親の居場所がわからなくなってしまったこともありました。

 御書に
「過去の謗法の罪の減せんとて邪見の父母にせめられさせ給ふ。
(中略)我が身は過去に謗法の者なりける事疑ひ給ふことなかれ。
此を疑って現世の軽苦忍びがたくて、慈父のせめに随ひて存の外に法華経を
すつるよしあるならば、我が身地獄に堕つるのみならず、悲母も慈父も
大阿鼻地獄に堕ちてともにかなしまん事疑ひなかるべし」(御書九八一ページ)と
示されていますが、私は、これが自分の親かと思うほど、狂ったように信心に
反対する両親の姿を見て、自分の過去の罪業がどれはど深いものであるかを思い知り、
本当に一生懸命に功徳を積んでいかなくてはいけない、と思いました。

 そして、一日最低二時間の唱題を実践するとともに、毎月の御登山や会合にも
積極的に参加し、さらに折伏も進めていきました。

 学会員に対して折伏するようになってからは、留守番電話に、「これから行ってやる。
ドアをバールでこじ開けてやるぞ」という脅迫のメッセージが入っていたり、
現実に、毎晩のように、家の前で学会男子部から待ち伏せされ、
ビデオカメラを向けられたり、腕をひねり上げられたあげく、
私が携帯していたカメラを奪われて壊される、といったことも起きました。

 しかし、一方では、たくさんの学会員の方を正宗に帰伏させることもできました。
そして、そのように一分ながらも功徳を積ませていただいてくる中、
私の身の回りは大きく変化してきたのです。

 じつは、後で知ったことなのですが、父は、ちょうど私が日蓮正宗に入信した頃から、
不動産の競売物件を買い取り、それをリフォームして貸す、という賃貸業を始めており、
十数年の間に、店舗を含む賃貸物件を二十数件ほど所有するようになっていたようです。

 その父が、平成九年のある日、突然、私に「東京都内に物件を購入し、ピアノ教室を
開いてはどうか。そのための資金援助をする」と言ってきたのです。
私が入信して十年目のことでした。私は、それまで父から尋常ではない仕打ちを
受けてきていましたので、一瞬、耳を疑ってしまいましたが、父の申し出に従って、
都内に土地・建物を購入し、そこでピアノ教室を開きました。しかし、ピアノ教室を
開いたところで、生徒が集まって来なければ何にもなりません。
とくに、不況の時代ですから、厳しい状況になることは充分に予測できました。

 ところが、開業したとたん、私の教室には、諸天善神の加護としか
考えられないような形で生徒が集まり続け、ついには、私一人では手に負えなくなって、
五年後には講師の先生に手伝ってもらって運営するようにまでなったのです。

 平成十年には、妙観講の同志であった主人と結婚し、以来、いっそう信心活動に
励んできました。

 そうした中、父から、ここ七年程の間に何度か、「土地の開発のために資金が
必要になったから、会社で所有して賃貸に出している仙台市内の物件を
買い取ってくれないか」と言ってきました。私は、信仰以外のことは、
できるだけ父の意に添うようにやっていこうと思っていましたので、申し出のあるつど、
買い取りました。そして、家賃収入の管理は全て父の会社に任せておりました。
もともと、父の手助けをするつもりでしたので、私としては、報酬はあてに
していなかったのです。

 ところが、税理士さんの指導で、この春から、私の所有となっている
2DK・4部屋と2LDK・2部屋の、計6部屋の家賃が、
直接、私の方に入金されることになった、と父が知らせてきたのです。

 これらの物件は、広めで、いずれも地下鉄の駅から一分以内の所にあるため、
空き室が出てもすぐに埋まります。今年も、二件の引っ越しがありましたが、
二件とも、待っていたかのようにすぐに次の入居者が決まりました。

 また、その際の改装のことなどは、父が、「おまえには、無理を言って買って
もらったのだから」と言って、そのつど手助けをしてくれました。

 数年前まで、あれほど信仰を嫌って暴力まで振るつていた父からは、
考えられないことです。
あらためて、"折伏をしたことで父母から責められるのは過去の罪業によるものであり、
折伏をして難に遭えば遭うほど罪障が消滅されていく″という大聖人様の御教えが、
まさに真実であることを確信いたしました。この上は、何としても父を入信まで
もっていかなければ、と思っております。

 そしてまた、入信当初は、経済苦、仕事の悩みなど、たくさんの悩みを抱え、
本業の他にあちらこちらでアルバイトをして、やっと生活を支えていたような自分が、
一分でも罪障消滅をさせていただけたおかげで、現在では、毎月、本業のピアノ教室で
得られる収入の二倍以上の収入が得られるようになりました。これによって、
御供養はもちろん、家族揃っての御登山や折伏活動などにも、何の不安もなく
励むことができます。

 本当に、御本尊様の功徳は絶大で、感謝しても感謝しきれません。
また、これまで、自分の罪業の深さに押し潰されそうになった時もありましたが、
講頭や先輩方が、そのつど、手を引いて導いてくださいました。そのおかげで、
自分のような者でも、一分一分、功徳を積ませていただけたのだと思います。
本当にありがとうございました。

今年の元朝勤行の際、私は、「猊下様の御意を安んじ奉り、広宣流布のお役に立てる
御奉公を一分でもさせていただきたい」との願いを立てましたが、今後は、御報恩のため、
さらなる精進を重ね、しっかりと御奉公と罪障消滅の道を歩んでまいります。
ありがとうございました。

*上記体験発表は、暁鐘編集室の承諾を得て蒼碧集9より引用しております。
 

蒼碧集9より体験発表…【2】

 投稿者:HP執行部  投稿日:2009年 1月29日(木)20時46分58秒
  折伏進展と共に

新事業の売上が二〇〇%増

T.M



 皆さん、こんにちは。五十一支区のT.Mと申します。

私は、昭和三十二年、小学二年の時に、創価学会を通して日蓮正宗に入信しました。
そして、中学三年生の頃から学会の活動にのめり込むようになり、
受験の時期も聖教新聞の配達をし、さらに、青年部となってからは、
地域の本部幹部となり、また輸送班員として、十数年間にわたり、
任務優先の生活もしました。池田大作が書いたと言われる書物も全て読破しておりました。

 しかし、昭和六十二年のある時、『聖教新聞』の記事を読んでいるうちに、
書物や学会内部で伝えられる池田大作像と、本物の池田大作とは全く違う、
ということに気付き、昭和六十三年初頭、創価学会の活動を全て停止しました。

 当時は、創価学会が決定的に謗法化してしまう以前でしたので、
私は、自分が決断したことが間違いないか、自分なりに調べていきました。
ところが、その過程において、仏法上とんでもない大慢心を起こしてしまったのです。
それは、「池田と直接会ったこともない私ですら、彼の本性がわかるのに、
なぜ猊下様はわからないのだろう、なぜ池田と仲良くしているのだろう」というものでした。

 今にして思えば、猊下様はお気付きになっていなかったのではなく、
深い御慈悲の上から創価学会を善導あそばされていたのですが、
私は、そんなことにも気付かず、慢心の上から批判の心を懐いてしまったのです。

 その後、平成三年一月に正式に脱会してお寺に付いたものの、私の生命の底辺に、
この大慢心が巣くっていたため、十三年間に三回も所属寺院を移り変わる、
という大罪を犯してしまいました。

 そして、平成十六年九月十二日、勝手に所属寺院を飛び出し、
宙に浮く形となってしまっていた私は、家族を伴って大石寺に向かい、
吸い込まれるように理境坊を訪ねたのです。

 そんな私達家族を、小川御住職様は御慈悲の上から受け止めてくださり、
ちょうど登山されていた大草講頭に会うよう、手配をしてくださいました。

 講頭は、初めてお会いするにも拘わらず、私の話の一つひとつを、
大きく包容して聞いてくださいました。私は何故か、この方なら間違いない、
この方について行けば大丈夫だ、という、言い知れぬ安堵感と喜びが湧きあがり、
子供のように溢れる涙を押さえることができませんでした。

 そして、その翌月から講中の諸会合へ出席させていただくこととなったのですが、
支区座談会・本部講習会・定例班長会・本部幹部会・御講登山と参加する中、
私と講中幹部の方々との明らかな違いを思い知らされることとなりました。

 妙観講の幹部の方々の信仰姿勢は、皆さん愚直で純粋、求道心旺盛で、
四六時中、身を低くして仏法を求めておられるのです。私は、その姿に我が身を照らして、
慢心だらけの今までの生き方・考え方を改め、この講中で正しい信心を身に染めていこう、
と心から決意をしました。

 また、昨年七月、本部講習会に参加する中、御書の御文を通して、
御僧侶の尊さと重大な存在意義すなわち、御僧侶がおられなければ
仏法は途絶えてしまうこと、御僧侶の批判をすることは、仏
法を断絶させ滅ぼそうとする行為であって、謗法になること、を教えていただき、
私は、かつての所属寺院で犯してしまった謗法の罪の深さを思い知りました。

 以来、毎日、朝夕の勤行の中で、その犯してしまった謗法を憾悔申し上げ、
罪障消滅を願って、よりいっそう折伏に励んできました。

 折伏については、妙観講に移籍して以来、先輩方に付いて、
それなりに行じてきたつもりでしたが、悪業の深さゆえか、一年間は全く入信決定する人が
出なかったのです。

 ところが、昨年七月に班長という大任を拝命し、その二ケ月後の九月に
初めて夏季合宿に参加した頃から、ようやく闇が晴れたように折伏が進みだして、
班としても毎月の誓願を達成し続け、この一年間で十八名の折伏が成就いたしました。
(拍手)

 そして、それに伴って、仕事上にも大きな変化が現われてきたのです。

 私は、平成五年までは、自営で二十六年間にわたって印刷会社を営んでいたのですが、
地主の一方的な都合で借家であった工場付き住宅の立ち退きを迫られ、
その裁判が続いておりました。

 そうした状況下にあった平成五年、御宗門では、元旦から百日間、
僧俗挙げて一人が一日二時間・五千遍ずつのお題目を唱える、
という方針を打ち出されました。

 私自身も、真剣にそれに取り組んでいったところ、いつしか私の心に、
それまでの力ずくで生きてきた人生に終止符を打ち、とにかく仏道修行を生活の根本にして、
仏法の素晴らしさを実証する人生を歩んでいこう、
との想いがフツフツと湧きあがってきました。

 すると、ちょうど百日間の唱題行の満願の日を迎えた直後、揉めていた立ち退き問題が、
アッという間に私の思いどおりに解決し、幼い子供達と妻を路頭に迷わせずに済みました。

 そして、同時に、別の仕事の道が開けてきたのです。

と言いますのは、当時、私は、趣味が高じて、
熱帯魚を育てるための水質の研究に取り組んでおりました。ところが、
ちょっとしたきっかけから、アメリカの工業用バクテリアのトップメーカーの方と知り合い、
私とそのメーカーが共同で、これらの魚を使って、ある微生物の開発を
行なうこととなったのです。

 当初のうちは何十回という失敗の連続でしたが、唱題をしては、
「これは御本尊様からいただいた仕事であり、必ず成功する」と信じて取り組んだ結果、
思いもよらなかった、微生物と販売のシステム、そして、水を高度活性化するための原理を、
私が手中にすることとなったのです。

 私は、そこで知り得た知識を元に、事業を立ち上げました。

初めの半年間で、全国の熱帯魚屋さんに電話での営業活動をしたところ、
ある程度の顧客も開拓できましたので、その後は、営業や勧誘の活動は一切せず、
仕事は夕刻の発送のみとしました。それでも、リピートや口コミで注文がきますので、
そこそこ生活できるだけの収入になり、仕事はそれ一本としました。

 そして、平成十六年に妙観講の講員となって、折伏に励んでくるなか、
なんと、売り上げが急速に伸び出したのです。
昨年は、一昨年と比較して二〇〇%の伸びとなり、私の実質的年収としては
千五百万円を超えるまでに至りました。今年度の売り上げは、
さらにそれを上回る成長をしております。

 私は、事業にはほとんど無頓着なのですが、それでも、御本尊様の功徳によって
開発された製品なので、海外にも広めていきたい、
まずはアジア方面から広めていきたい、と、おぼろげながら考えていました。

 しかし、目下のところ、折伏や育成に駆け回っていて、
そんな時間的余裕もありませんので、放っておいたところ、今年の三月のある日、
ある貿易代行会社から「あなたの会社の製品が今、台湾と香港で騒がれているので、
ぜひ取り扱いたい」と言ってきたのです。思いもかけなかったことでしたので、
これには驚き、本当に御本尊様の御力、折伏の功徳はすごい、
と思わずにはいられませんでした。

 現在、徐々にではありますが、海外に向けての輸出が始まり、
これからも伸びていきそうな手応えを感じております。

また、家族のことですが、妙観講に入講してからは、妻も子供達も、
講中の諸会合を中心にした生活を送るようになり、高校二年の娘のK子は、
H部長の応援を得て、昨年の十二月以降、三名の折伏を成就させていただきました。

 息子のK介は、入講以来の私の変化を見ていたのでしょう、
ある時、私に「お父さん、変わったよね」と言ってきました。その言葉に、
私は一瞬、言葉を失いました。かつての私は、子供達にも信仰を威圧的に強いるだけで、
何でもかんでも自分の一存で決めるものですから、所属寺院を移り変わった時も
辛い想いをさせてしまったと思います。

 私は息子に、「妙観講では、自分が変わらなければやっていけないんだよ。
どの先輩も純粋で、講頭さんを見ればわかるだろ。一番、頭が低くて、
一番求道心が強いんじゃないかな」と話しました。

 今は、子供達も自ら進んでする信仰に変わってきたことが、本当に嬉しく、
また有り難く思います。

 私は、自分の福徳のなさから、大きな回り道をしてしまいましたが、
今、講中の諸先輩との因縁を、命の底から深く感じております。

 これからは、この講中に脈打つ歴史と精神を我が身に染め抜いて、
講中の当面の目標である「平成二十一年・講員総数五万名」の達成を目指し、
共に折伏を行じ、一分ながらもお役に立ってまいる所存であります。

 ありがとうございました。(大拍手)

*上記体験発表は、暁鐘編集室の承諾を得て蒼碧集9より引用しております。
 

蒼碧集9より体験発表…【1】

 投稿者:HP執行部  投稿日:2009年 1月13日(火)22時48分3秒
  邪正の違い歴然!
親戚も驚いた母の成仏
E.Y

 こんにちは。E.Yです。

本日は、昨年の四月十五日に亡くなった母のことと、私自身が信心で変わったこ
とをお話ざせていただきます。

 私の家は、先祖代々の宗旨は禅宗ですが、祖母が立正佼成会に入信し、私が物
心ついた頃には熱心に立正佼成会の信仰をしておりました。私自身、小さい頃、
姉と一緒に祖母に手を引かれて、立正佼成会の集まりに連れて行かれたことを覚
えています。

 そうした中、今度は、父が職場の人に誘われて創価学会に入り、御本尊様をお
受けしたのですが、怒った祖母は、父が仕事に行っている間に、御本尊様を立正
佼成会の本部に持って行って焼いてしまう、という大謗法を犯してしまったので
す。

思えば、その頃から我が家は、まさに仏罰を絵に描いたような状況になっていき
ました。
 まず、祖母は、御本尊様を御不敬した直後からリウマチで苦しむようになり、
寝たきりとなって、三年間、許しみ抜いたあげく、亡くなってしまいました。
 また、同じ頃、父は、喘息(ぜんそく)を患(わずら)い、発作が出ると仕事
にも行けなくなるため、収人が安定せず、私の家は、いつもいつも貧乏でお金に
困っていました。
 さらに、姉は、精神的な障害から、小学校に行くことすらできませんでした。
 そして、私自身はといえば、聴覚(ちょうかく)に異常があり、両耳ともほと
んど聞こえないくらいの難聴でした。
 そのせいもあってか、小・中学校では、皆から仲間はずれにされた上、階段か
ら突き落とされたり、虫をぶつけられたりと、毎日毎日、ひどいイジメに遭(あ
)っておりました。もともと内向的だった私は、学校でも家でも、ほとんど口を
開くことがなく、イジメについて一人で苦しんでいました。

 やがて高校を卒業した私は、将来に何のあてもないまま、喫茶店でウエイトレ
スのアルバイトをしていたのですが、そこで知り合った妙観講のT.Mさんから
折伏を受け、昭和五十九年、日蓮正宗に入信することができたのです。

 ところが、家に帰って、日蓮正宗に入信したことを母に話したところ、母は、
「宗教は金儲けだ。すぐに止めると言ってきなさい」と、大変な剣幕(けんまく
)で怒り出したのです。
 それも無理のないことだったかもしれません。母は、昔、立正佼成会に入って
いた祖母がリウマチで寝たきりになって、その看病(かんびょう)だけでも大変
なのに、さらに父も喘息で働けず、医者に払うお金にも困るような状況の中で、
祖母から言いつけられては、立正佼成会に布施(ふせ)を持って行かされるなど
、さんざんな目に遭っていたのです。宗教に正邪の違いがあることなど知る由も
なかった母は、宗教は懲(こ)りごり、という心境だったのでしょう。

 それからの十年間というもの、私がいくら話しても、母は全く耳を貸してくれ
ず、徹底的に信仰に反対し続けたのでした。
 しかし、私は、母の反対を押し切って勤行に励み、会合にも参加して、さらに
教えられたとおり、周囲の人達を片っ端から折伏していきました。

 そうした中の、入信六年目の平成二年、父を折伏した際、父は初めて、自分が
創価学会を通じて入信していたこと、祖母の反対で退転してしまったこと、御本
尊様を御不敬されたことなどを打ち明けてきました。
 その頃の父は、喘息のために何年間も入院しており、かなり身体も弱っており
ました。御本尊様を御不敬した仏罰でこんなにひどい目に遭っているのだ、と知
った父は、妙観講に入講することになったのですが、この時も、母は頑(がん)
として譲ることなく、自分は絶対に入らない、と言い張りました。

 そんな母が、この信心ができるようになったきっかけは、平成三年の父の葬儀
でした。

 父が亡くなった時、私は、葬儀は何としても日蓮正宗で出さなければ、と思い
、母に「お父さんは、自分が死んだら日蓮正宗で葬儀を出してほしい、と言って
いた。そうさせてほしい」と話しました。
すると母は、あっさりと 「お前に任せる」と言ってくれたのです。
 猛烈に反対してくるものを覚悟していただけに、それは本当に意外な返事でし
た。

 さらに驚いたのは、その後の母の行動でした。母は、誰に言われたわけでもな
いのに、その日のうちに菩提寺である禅宗の寺に足を運び、「私の家は日蓮正宗
に改宗しました」と言って、禅宗と縁を切ってきたのです。私は、「まだ御授戒
も受けていないのに、せっかちな母だなぁ」と思いながらも、本当に嬉しく思い
ました。

 そして、無事に父の葬儀が終わった一ヵ月後、先輩方が私の実家に足を運んで
くださり、母を折伏してくださいました。母は、「父の追善供養(ついぜんくよ
う)のためにも」ということで納得し、姉と共に入信を決意してくれました。(
拍手)
 十年もの間、あれほど強行に反対し続けた母とは思えない変わりようでした。

 母は、足が悪かったために、本部での会合には参加できませんでしたが、私が
実家に出向いて行なう班座談会の時には、いつもニコニコして話を聞いてくれま
した。
また、私が『暁鐘』や『妙観』を渡すと、母はいつも熱心に読んでくれました。
とくに、御法主上人猊下様の御説法は、本当に真剣に読んでいました。
 そして、「本当に池田は悪いやつだね」とか「創価学会はとても大きな組織だ
けど、負けないように頑張れ」などと話してくれるようになったのです。総会に
も、何回か参加することができました。

 しかし、高齢となった母は、五年程前から心臓が弱くなり、入退院を繰り返す
ようになっていきました。
 途中、二回ほど危篤(きとく)状態に陥ったこともありましたが、小川御住職
様に当病平癒(とうびょうへいゆ)の御祈念をしていただいたおかげで、そのつ
ど、命を取り留めることができ、こうした体験を通じて、母は御本尊様への信心
を固めていくことができたのです。

 そして、昨年四月十五日、母は臨終を迎えましたが、全く苦しむこともなく、
穏やかな相で亡くなりました。
 一日おいて四月十七日にお通夜、翌十八日に告別式と決まり、小川御住職様の
お計らいで、近くのU市のJ寺様から御僧侶が来てくださることになりました。
私は、母の成仏を願って、必死で唱題していきました。
そして、お通夜を迎えた時、母は本当にすばらしい姿になっていたのです。

御書に、
「人は臨終の時、地獄に堕つる者は黒色となる上、其の身重き事千引(ちびき)
の石(いわ)の如し。善人は設ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども、臨
終に色変じて白色となる。又軽き事鵞毛(がもう)の如し、軟らかなる事兜羅綿
(とろめん)の如し」(御書一二九〇ページ)と仰せられ、成仏した人は、生前
よりも色が白くなり、死後硬直が起こらず、臭いも全くなく、身体が柔らかくな
る、と示されています。

 生前の母は、決して色白な人ではありませんでしたが、臨終を迎えた母の顔は
、死に化粧などしていないのに、本当に白くなって、シミの一つもないのです。
体も、硬直することなく、柔らかいままでした。まるで安らかに眠っているよう
な、本当に穏やかな相でした。


 母の遺体と対面した親戚の叔父や叔母からは、「きれいだ!別人みたいだ!」
と驚きの声が上がり、ある人は、驚きのあまり、「本当にお母さんはきれいな人
だ。あなたはお母さんに似なくて可哀相だったね」(笑い)と言ってきました。

 私にとっては、ずいぶん失礼な話ですが、それも、母の相の、あまりの素晴ら
しさから出た言葉ですから、嬉しく思いました。 お通夜の後、御僧侶に御礼を
申し上げたところ、御僧侶からも「本当にきれいな相ですね。自信を持っていい
ですよ」 と言っていただきました。

 お通夜の日は、講中の同志の方々が大勢駆けつけてきてくださり、母のために
、泊りがけでお題目を唱えてくださいました。その功徳に支えられて、母の相は
さらにきれいになっていき、息を引き取ってから火葬までのまる三日間、ドライ
アイスも入れていないのに、全く死臭もありませんでした。

 思えば、私は、これまで祖母・父・母と、三人の肉親を見送りました。
 立正佼成会の信者で御本尊様を御不敬した祖母は、臨終が迫った時、苦しみの
あまり「神も仏もない」と叫んで息を引き取り、顔が真っ黒になってしまいまし
た。まさに、御書や経典に示されたとおりの地獄の相です。

 また、大切な御本尊様をお護りできなかった父は、晩年、妙観講に入講はした
ものの、御題目を唱えることすらなかなかできないような信心状態で、結局、臨
終間際には、私に「殺してくれ」と頼むほど、苦しみぬいて亡くなったのです。
しかし、そんな父も、日蓮正宗で葬儀をしていただくことができ、御僧侶の御祈
念と講中の皆さんの御題目のおかげで、辛うじて良い相になることができました


 ところが、信心することのできた母の場合は、四年の闘病(とうびょう)期間
中、ほとんど苦しむことがなく、それどころか、臨終が近づくにつれて穏(おだ
)やかな相になっていき、ついには成仏の相を現ずることができたのです。

 私は、この三人の姿を引き比べ、あらためて邪宗謗法の恐ろしさを思うと同時
に、「やはり、自ら御本尊様を信じて唱えた御題目の功徳は絶大なのだ」と確信
し、御本尊様に巡り会えた喜びをかみしめました。

 また、私自身、まだまだ至らないながらも仏道修行に励んでくる中で、本当に
考えられないような功徳をいただいてきました。

 入信前は、人と接することが苦手で、些細(ささい)なことで落ち込み、すぐ
に自殺を考えたりするような伏態だったのが、いつの間にか、周囲の人とも円満
に付き合うことができるようになり、今では、人から頼られ慕(した)われるこ
とさえあります。気がついたら、会話することも好きになっていました。

 また、両親の体質を受け継いだのか、小さい頃から病弱で、病名を挙げたら二
十を超えるくらいでしたが、仏道修行に励むにつれてどんどん健康になっていき
、今では病気らしい病気もなくなり、元気すぎるくらいの健康体になりました。

 とくに、入信して数年が経った頃、罪業が出たのでしょうか、父と同じ喘息(
ぜんそく)になった時はショックでしたが、発作のために毎日ニ時間ほどしか眠
れない状況の中、発作が起きるたびに御本尊様に向かって二時間・三時間と唱題
をし、回りの人を片っ端から折伏していったところ、二ヶ月でピタリと治ってし
まいました。

 さらに入信七年目には、驚くべきことが起こりました。小さい時からほとんど
聞こえなかった両耳のうち、なんと、左耳が完全に聞こえるようになっていたの
です。(大拍手)

 それは、本部で唱題していた時のことです。じつは、私は入信以来ずっと、難
聴のために皆さんの唱題に声を合わせることができずにいたのですが、たまたま
その時、どなたかから「Eさん、声が合うようになりましたね」と声を掛けられ
、そこで初めて、いつのまにか自分の耳が完全に聞こえるようになっていること
に気が付いたのでした。
 私は、嬉しくて有り難くて、心の底から御本尊様に御礼申し上げました。

 母の葬儀の際に久しぶりに会った叔父や叔母は、私が明るく、しっかりしてき
た、と驚き、喜んでくれました。

 御本尊様に出会えなかったら、また出会っても、創価学会で入信した父のよう
に、正しい信心の在り方を教えてもらえなかったら、今の私は絶対にありません
でした。正しい師のもとで、正しく信心させていただけることを、心から有り難
く思います。

 現在も、「絶対に創価学会を崩壊させるんだ」との想いで、毎日のように学会
員に対する折伏をしておりますが、昨年の総会以降、私の班では十五名の学会員
を正宗に帰伏させることができました。(拍手)

私が重点的に回っている地域の学会幹部の間では、「Eは有名な詐欺師(さぎし
)で、学会の本尊を破り歩いている」などと言われているらしいです。

 もちろん、デタラメもいいところですが、大聖人様は、
 「仏法の道理を人に語らむ者をば男女僧尼必ずにく(憎)むべし。よし、にく
まばにくめ、法華経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安等の金言に身をまかすべ
し。如説修行の人とは是なり」(御書九〇六ページ)と仰せられています。折伏
ゆえに悪口を言われれば、それが全て罪障消滅になるのですから、こんな有り難
いことはありません。

 これからも、大聖人様の御金言に身を任せ、しっかりと仏道修行に励んでまい
ります。ありがとうございました。(大拍手)

*尚、上記体験発表は、暁鐘編集室の承諾を得て蒼碧集9より引用しております。
 

体験発表館

 投稿者:HP執行部  投稿日:2009年 1月11日(日)22時54分54秒
  ここの掲示板では、日蓮正宗信徒(法華講員)の
信心による体験発表を掲載しています。
 

念仏から日蓮正宗へ入信

 投稿者:HP執行部  投稿日:2008年 7月10日(木)19時56分33秒
  念仏寺院の住職を退職 (体験談)

   本当の信心を知って
-念仏寺院の住職を退職-
 滋賀県 ○○寺支部


 只今紹介を受けました○田○信と申します。
私はこの三月の末まで、そう、ついこの間まで浄土真宗西本願寺派の僧侶で、
江戸時代後期から百五十年間続く「K寺」という寺の住職をしておりました。

そんな私がこの総会で皆様を前に体験発表をしているのですから、自分でも何が起こったのか不思議に思っております。

 入信のきっかけは、私の妻が、家族のことも忘れて念仏僧侶の仕事と、寺を守るということばかりに明け暮れている私の姿を見て、いつも嘆き悲しみ、苦しんでおりました。

 そんなある日のこと、妻は友人の○本○○子さんに人生の相談を始めました。
でも、○本さんは、
「あなたの悩みを解決するには・・・教えてあげたいけど…、もしあなたに私が救えたら、あなたの家がひっくり返るかもしれんのよ」と言われました。
でも必死だった妻はあきらめませんでした。「どうしても教えて欲しいの」と願ったのです。

すると○本さんは、こう言われたそうです。
「宗教には害毒があるのよ。あなたの家はお寺で、念仏の教えの場所やで、絶対に救われることはないのよ」と。

「えっ?宗教の害毒…」妻はいっそう落ち込んで、悩んでしまいました。
でも○本さんの言うとおりに、本物の幸せを求めて妻は唱題を始めたのです。
やがて○○市の○○寺にも行くようになりました。

初めてお会いしたM御住職から
「あなただけが幸せになりたいのですか」と尋ねられた妻は、
「家族みんなで幸せになりたい」と答えたそうです。
妻が求めていたのは、自分だけの幸せではなく、家族全員の幸せでした。

 そしてある日、ついに妻は勇気を出して私にこう言いました。
「お父さん、念仏では救われへんのよ。不幸になるだけや」
「おかしなこと言うてるねん。念仏がおかしいて、あんた気が変になったんと違うか?」
と私は猛反対しました。

それでも妻は離婚を覚悟で、いつも私に言い続けたのです。

 あまりの真剣さに私は恐る恐る、ほんまに恐る恐る○○寺に行ってみました。
そしたら御住職の笑顔と、そして皆さんが「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と
大きな声で、一心にお題目を唱えているではありませんか。

 私は子供の頃から「南無妙法蓮華経」は罪深い言葉だと
祖母から教えられて育ってきたものですから、
皆さんの真剣な唱題の姿を見て、何でこんなに一生懸命に唱えることができるんやろ。
何故、疑いもなく真っ直ぐな声を出して真剣になれるんやろ」

その日から私は心から信じていないのに、いつの間にか口から静かにそして自然に
「南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経」と
お題目が湧いて出てきてしまったのです。

「なんちゅうこっちゃ」、
妻には冷たい言葉を吐いて猛反対している自分が、
車に乗っている時でも「南無妙法蓮華経」と呟(つぶや)いているのでした。

 私の子供は大学生ですが、全身がアトピーです。
入学したばかりの工業大学も、やむなく一年間休学しなければならない状態でした。
その時分は下宿で体も衰弱して、部屋の中で引きこもっていました。

そして精魂尽き果て、ある日バイクで家に帰ってきました。
折しも私たち夫婦はすでにM御住職と御縁をいただいて間もない頃でしたから、
全ての事を御住職に相談させていただきました。

すると御住職は「どのような形でもいいから、子供さんをお寺に連れて来なさい」。
このお言葉も、信じるとか、念じるとか、そんなことは何も言われませんでした。
ただ「連れて来なさい」だけ。

家に帰ってきた息子は、ある夜のこと、
「南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経」と妻が唱えているのを聞いて、
「おかしなことを言ってるねん、お母さん変や、気がおかしくなったんか、
それ何やねん、僕はそのお寺に行って住職に文句を言うてやる」と言いました。

チャンス到来。すかさず私は息子に
「そうしたら、今からすぐにお寺へ行こうか」と言うと、
「よーし、すぐ行こう」となって、
早速、私は車を用意して息子を乗せてお寺に走りました。

息子は車の中でも凄まじい剣幕でした。
でも車はゆっくりでしたが、真っ直ぐに○○寺へと向かうのでした。
途中の信号も全部「青」でした。

 やがてお寺に着いて、本堂の玄関からではなく客間の脇からあげてもらい、
パジャマ姿の息子が御住職と対面しました。
いつもなら身なりを一番気にする息子が、なんとパジャマ姿で、
しかも、それまで大剣幕で文句を言ってやるぞと息込んでいた息子が、
御住職とお会いした途端に何も言えなくなりました。

御住職は息子にこう言って下さいました。
「何も信じなくてもいいから…。今の君は体も心もボロボロなんだって。
だったら今日はね、寝るときに三回でいいから南無妙法蓮華経と言って寝てごらん」。

息子はキョトンとして「はい」と静かに呟き、怒りの心を鎮めて家に帰りました。
そして御住職と約束したとおりお題目を三唱して寝たのです。

 次の日の朝、息子は大声で叫びました。
「お父さん、お母さん、顔の膿(うみ)が消えている。
昨日の夜、たった三回南無妙法蓮華経と言っただけなのに、
何も信じていないのに、ほんまに見て、顔が綺麗になってる」と涙ながらに言いました。
私も妻も、そして息子も、涙の中で真実を見せていただいたのです。

 私はこの二つの出来事に、念仏の中で生きることに対しての愚かさを
身にしみて悟らせてもらったのです。
念仏では救われない。念仏は仏様から信心を戴くと言うが、妻も私も息子も、
その信心では救われなかったと実感しました。

家族が一つになれたのは、南無妙法蓮華経、
つまり日蓮大聖人様の教えでしかなれなかったのです。

 この日から御住職に相談しながら、僧籍を返上して還俗する手続きやら、
K寺の檀家総代や役員の方達に住職をやめる事情を説明して、
後任住職の選定を組寺の長に一任する手続きやら、引っ越しの段取りやら、
毎日が慌ただしく過ぎていきました。

 そうして昨日、四月十九日に○○寺の御宝前において、
はれて家族四人が御授戒を受けさせていただき、御本尊様を御下附いただきました。
涙が心からも体からも湧いて出てきました。

私たちの周りには兄弟親戚や友人ではなく、
本物の仏様日蓮大聖人様に選ばれた○○寺支部法華講の皆様の応援の声、
唱題の姿がありました。

 私たちの家族は日蓮大聖人様の教え、
真実の仏法の道につかせていただくことができました。
本物の仏様の教えこそが日蓮正宗なんだ。
この浄土真宗の僧侶であった私が心から言っているのですから間違いありません。

 私たち家族には本当の信心と、そして行動の日々が始まったのだなと思い、
心から前進していく決意であります。

 私は住職としてK寺を捨てたのではなく、本物の仏様の教えを知った以上は、
それまで私を慕って協力してくれた全ての檀家さんお一人お一人を折伏していくことが私の使命です。
私は今でもK寺の檀家さんが大好きです。
だからこそ折伏して幸せにしてあげなければと思っています。
そして、母や兄弟、親戚を一人ずつ折伏していく人生を生き抜こうと思っています。(略)
 

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