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【管理人=破邪顕正HP執行部】



●この館では、日蓮正宗の信心に役立つ書籍の内容紹介をしています。
《当HPは、暁鐘編集室へ連絡の上、書籍内容の公示を行う旨、承諾を得ております》

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キーワード: 体験談 日蓮正宗 法華講

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念仏から日蓮正宗へ入信  投稿者:HP執行部  投稿日:2008年 7月10日(木)19時56分33秒
  念仏寺院の住職を退職 (体験談)

   本当の信心を知って
−念仏寺院の住職を退職−
 滋賀県 ○○寺支部


 只今紹介を受けました○田○信と申します。
私はこの三月の末まで、そう、ついこの間まで浄土真宗西本願寺派の僧侶で、
江戸時代後期から百五十年間続く「K寺」という寺の住職をしておりました。

そんな私がこの総会で皆様を前に体験発表をしているのですから、自分でも何が起こったのか不思議に思っております。

 入信のきっかけは、私の妻が、家族のことも忘れて念仏僧侶の仕事と、寺を守るということばかりに明け暮れている私の姿を見て、いつも嘆き悲しみ、苦しんでおりました。

 そんなある日のこと、妻は友人の○本○○子さんに人生の相談を始めました。
でも、○本さんは、
「あなたの悩みを解決するには・・・教えてあげたいけど…、もしあなたに私が救えたら、あなたの家がひっくり返るかもしれんのよ」と言われました。
でも必死だった妻はあきらめませんでした。「どうしても教えて欲しいの」と願ったのです。

すると○本さんは、こう言われたそうです。
「宗教には害毒があるのよ。あなたの家はお寺で、念仏の教えの場所やで、絶対に救われることはないのよ」と。

「えっ?宗教の害毒…」妻はいっそう落ち込んで、悩んでしまいました。
でも○本さんの言うとおりに、本物の幸せを求めて妻は唱題を始めたのです。
やがて○○市の○○寺にも行くようになりました。

初めてお会いしたM御住職から
「あなただけが幸せになりたいのですか」と尋ねられた妻は、
「家族みんなで幸せになりたい」と答えたそうです。
妻が求めていたのは、自分だけの幸せではなく、家族全員の幸せでした。

 そしてある日、ついに妻は勇気を出して私にこう言いました。
「お父さん、念仏では救われへんのよ。不幸になるだけや」
「おかしなこと言うてるねん。念仏がおかしいて、あんた気が変になったんと違うか?」
と私は猛反対しました。

それでも妻は離婚を覚悟で、いつも私に言い続けたのです。

 あまりの真剣さに私は恐る恐る、ほんまに恐る恐る○○寺に行ってみました。
そしたら御住職の笑顔と、そして皆さんが「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と
大きな声で、一心にお題目を唱えているではありませんか。

 私は子供の頃から「南無妙法蓮華経」は罪深い言葉だと
祖母から教えられて育ってきたものですから、
皆さんの真剣な唱題の姿を見て、何でこんなに一生懸命に唱えることができるんやろ。
何故、疑いもなく真っ直ぐな声を出して真剣になれるんやろ」

その日から私は心から信じていないのに、いつの間にか口から静かにそして自然に
「南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経」と
お題目が湧いて出てきてしまったのです。

「なんちゅうこっちゃ」、
妻には冷たい言葉を吐いて猛反対している自分が、
車に乗っている時でも「南無妙法蓮華経」と呟(つぶや)いているのでした。

 私の子供は大学生ですが、全身がアトピーです。
入学したばかりの工業大学も、やむなく一年間休学しなければならない状態でした。
その時分は下宿で体も衰弱して、部屋の中で引きこもっていました。

そして精魂尽き果て、ある日バイクで家に帰ってきました。
折しも私たち夫婦はすでにM御住職と御縁をいただいて間もない頃でしたから、
全ての事を御住職に相談させていただきました。

すると御住職は「どのような形でもいいから、子供さんをお寺に連れて来なさい」。
このお言葉も、信じるとか、念じるとか、そんなことは何も言われませんでした。
ただ「連れて来なさい」だけ。

家に帰ってきた息子は、ある夜のこと、
「南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経」と妻が唱えているのを聞いて、
「おかしなことを言ってるねん、お母さん変や、気がおかしくなったんか、
それ何やねん、僕はそのお寺に行って住職に文句を言うてやる」と言いました。

チャンス到来。すかさず私は息子に
「そうしたら、今からすぐにお寺へ行こうか」と言うと、
「よーし、すぐ行こう」となって、
早速、私は車を用意して息子を乗せてお寺に走りました。

息子は車の中でも凄まじい剣幕でした。
でも車はゆっくりでしたが、真っ直ぐに○○寺へと向かうのでした。
途中の信号も全部「青」でした。

 やがてお寺に着いて、本堂の玄関からではなく客間の脇からあげてもらい、
パジャマ姿の息子が御住職と対面しました。
いつもなら身なりを一番気にする息子が、なんとパジャマ姿で、
しかも、それまで大剣幕で文句を言ってやるぞと息込んでいた息子が、
御住職とお会いした途端に何も言えなくなりました。

御住職は息子にこう言って下さいました。
「何も信じなくてもいいから…。今の君は体も心もボロボロなんだって。
だったら今日はね、寝るときに三回でいいから南無妙法蓮華経と言って寝てごらん」。

息子はキョトンとして「はい」と静かに呟き、怒りの心を鎮めて家に帰りました。
そして御住職と約束したとおりお題目を三唱して寝たのです。

 次の日の朝、息子は大声で叫びました。
「お父さん、お母さん、顔の膿(うみ)が消えている。
昨日の夜、たった三回南無妙法蓮華経と言っただけなのに、
何も信じていないのに、ほんまに見て、顔が綺麗になってる」と涙ながらに言いました。
私も妻も、そして息子も、涙の中で真実を見せていただいたのです。

 私はこの二つの出来事に、念仏の中で生きることに対しての愚かさを
身にしみて悟らせてもらったのです。
念仏では救われない。念仏は仏様から信心を戴くと言うが、妻も私も息子も、
その信心では救われなかったと実感しました。

家族が一つになれたのは、南無妙法蓮華経、
つまり日蓮大聖人様の教えでしかなれなかったのです。

 この日から御住職に相談しながら、僧籍を返上して還俗する手続きやら、
K寺の檀家総代や役員の方達に住職をやめる事情を説明して、
後任住職の選定を組寺の長に一任する手続きやら、引っ越しの段取りやら、
毎日が慌ただしく過ぎていきました。

 そうして昨日、四月十九日に○○寺の御宝前において、
はれて家族四人が御授戒を受けさせていただき、御本尊様を御下附いただきました。
涙が心からも体からも湧いて出てきました。

私たちの周りには兄弟親戚や友人ではなく、
本物の仏様日蓮大聖人様に選ばれた○○寺支部法華講の皆様の応援の声、
唱題の姿がありました。

 私たちの家族は日蓮大聖人様の教え、
真実の仏法の道につかせていただくことができました。
本物の仏様の教えこそが日蓮正宗なんだ。
この浄土真宗の僧侶であった私が心から言っているのですから間違いありません。

 私たち家族には本当の信心と、そして行動の日々が始まったのだなと思い、
心から前進していく決意であります。

 私は住職としてK寺を捨てたのではなく、本物の仏様の教えを知った以上は、
それまで私を慕って協力してくれた全ての檀家さんお一人お一人を折伏していくことが私の使命です。
私は今でもK寺の檀家さんが大好きです。
だからこそ折伏して幸せにしてあげなければと思っています。
そして、母や兄弟、親戚を一人ずつ折伏していく人生を生き抜こうと思っています。(略)
 

蒼碧集第9集より  投稿者:プリティピッグ  投稿日:2007年 6月29日(金)19時45分56秒    編集済
  折伏による大功徳!
ついに業病の進行ガンをも克服

 第五十一支区 田中 美佐子班長
(平成十七年・第二十七回総会より)

 皆さん、こんにちは。五十一支区の田中 美佐子です。
 私は、昭和四十年、創価学会を通じて日蓮正宗に入信しました。
 入信後、勤行・唱題に励む中で、御本尊様の功徳を体験した私は、「これはすごい!本物の宗教だ!」との確信を抱き、どんどん創価学会の活動にのめり込んでいきました。
 以来、私は、自分では日蓮大聖人の仏法を信じ、純真な信心を一所懸命しているつもりでしたが、創価学会が日蓮正宗とは異質な教えになっているなどとは、夢にも思いませんでした。

 そのため、公明党の選挙といえば、「一票取ることは一人折伏するのと同じ」という学会の指導を信じ、狂ったように頭を下げて歩きました。
 また、学会の間違った教学を振りかざして、多くの人達を入会させてしまいました。
ある時は、読売新聞や朝日新聞の編集局に電話し、「これほど立派な池田先生のことを、どうして日本のマスコミは大きく取り上げて報道しないのか!?」と、本気で抗議したこともあります。

 そんな状態でしたから、昭和五十二年に起きた第一次学会問題で、日蓮正宗御宗門が学会の誤りについて厳しく指弾(しだん)された時も、私は全く学会に疑いを抱くことなく、池田大作が引責辞任した時には大ショックで泣きました。
 要するに私は、模範的な池田教信者だったのです。

 しかし、このような狂った信仰をしていて、御本尊様から叱られないわけがありません。
 学会の活動をすればするほど、私の生活はどんどん悪化していきました。
 子供がスベリ台から落ちて、生死の境をさまよう程の大けがをしたり、警備会社に勤めて万引きGメンをしていた時には、つかまえた相手に襲われ、働くことすらできなくなる程の重傷を負わされたこともあります。

 その他にも、自分や家族に様々な災難や事故が降りかかってきましたが、私は、これが仏法に反している罰だとは気付きもしませんでした。

 しかし、そのような中で、登山した折、たまたま総本山の売店で、妙観講で発行している月刊誌『暁鐘』(ぎょうしょう)を購入し、それから定期購読を始めたことから、日蓮正宗信徒の正しい在り方を学べるようになったのです。これが後に、学会の誤りに気付いて脱会する基となりましたので、この時が、妙観講との緑の始まりだったのだと思います。

 その後、昭和六十年に現在の主人と出会い、折伏し、共に軽自動車運送事業の会社を立ち上げました。
 当時、流通の主流は大型トラックで、軽自動車運送という業種は世間で相手にしてもらえませんでしたので、ほとんど仕事の注文が入ってこない、本当に厳しい日々が続きました。
 私と主人は、自分達なりに唱題と折伏に励み、この苦境を打開しようとしましたが、学会流の信心ですから、さっぱりうまくいきません。

 そのうちに、平成二年頃でしょうか。聖教新聞を読んでいた主人が、突然「学会はおかしい」と言い出しました。会合に行っても、池田会長を礼賛(らいさん)する内容ばかりで、大御本尊様や総本山のことは全然出てこない、という状態に疑問を持ったのです。
 さらに、二十年来の友人である学会の大幹部が、「池田先生と日蓮大聖人の相似(そうじ)点を探している」と言うのを聞いて、私も「これは変だ」と思いました。
 学会で集金に回ってくる広布基金も、総本山のために使われるのではなく、「池田先生に自由に使っていただくためのお金だ」と聞き、キッパリお断わりしました。
 そういう判断ができたのは、毎月送っていただいていた『暁鐘』を読んで、正しい信心の在り方を学んでいたからです。

 こうして私達は、まったく学会の活動に参加しなくなりましたが、すると、不思議にも仕事の注文が増え始めたのです。
 その間、平成三年十一月には創価学会が日蓮正宗より破門され、平成四年八月には池田大作が日蓮正宗より信徒除名処分となりました。

 私達はこれを見て、やはり学会は間違っていたのだ、と確信し、平成五年に入り、自主的に脱会して地元の末寺に移籍いたしました。
 それからは、「学会時代に作ってしまった謗法の罪障を洗い流したい、今度こそ正しい信心をもって御奉公させていただきたい」 との一心で、毎日一時間の唱題と、学会員に対する折伏に励みました。有り難いことに、それと並行して、会社の業績はぐんぐん上がっていったのです。

  一方、そのようにして折伏をどんどん進めていく私の在り方は、やはり成り立ちの因縁が違うためか、所属した末寺講中の中で次第に浮き上がり、さまざまな波風が起きてきました。
 その中で苦しむ私を見て、よほど可哀相(かわいそう)に思われたのでしょう、副御住職様より、「そんなに折伏がしたいのなら、妙観講へ移りませんか」とのお話があり、平成十五年の二月、異例な形で、妙観講へ移籍させていただいたのです。

 そして、妙観講へ入って驚きました。いわゆる怨嫉というものが全然ないのです。真に異体同心で前進していることが感じられ、本当に感激しました。
 もとより私にとって、妙観講は憧れでした。総本山を全力で外護申し上げ、信心と折伏の指導は日本一の講中です。

 それまでの末寺での折伏で、苦しい時、辛い時、恐ろしい時は、同志と共に 「こんな時、妙観講ならどうするんだろう?妙観講なら絶対に逃げないよね!」と互いに励ましあい、語りあってきたのです。その妙観講へ入講できたのですから、しっかりと折伏に励まなければ申し訳ありません。

  入講以来、毎月のお登山に、折伏にと、東川部長を始め先輩方に連れて歩いて戴き、仏道修行に励む中、急速に会社に変化が現れました。銀行からの借り入れがどんどん有利な方向に変わってしまい、昨年の一月には、考えてもみなかった自社の社屋が完成しました。
  二十年前、電話一本とトラック一台からスタートした小さな事業が、現在は資本金一千万円の株式会社になり、年間売上も2億円を数え、取引先は一流企業が占め、安定した業績を上げています。広い自宅も購入し、近くの工業団地に土地も所有するに至りました。本当にたくさんの功徳を、物心両面に渡って御本尊様より頂戴したのです。

 その大功徳から見れば、まだまだ御報恩の折伏が足りません。そう思って、今まで何百軒となく学会員宅の折伏に歩かせて戴きましたが、ひどい暮らしのお宅や、そのみじめな家族を見る度に、心の底から学会に対する怒りが込み上げてきました。

 世界中の学会員を洗脳し、猊下様への攻撃と三宝破壊という大謗法を犯させて罪障を積ませ、地獄に堕としているのです。「許せない。私は、創価学会と池田大作を始め学会幹部を、絶対に許さない!」と、何百回も自分に言い聞かせてきました。騙(だま)される方も悪いとはいえ、頭破七分した学会員が気の毒で、何度も悔し涙を流してきました。不幸のどん底にあえいでいる学会員を、一日も早く日蓮正宗に帰伏させて、正しい信心をさせてあげたいのです。

 そうした強い思いで折伏を続ける中で、帰伏する学会員が増えてきました。
昨年帰伏したTさんは、数年前に創価学会に入会した方ですが、折伏を行なった私に、学会員の教唆(きょうさ)によって『御本尊泥棒』という濡れ衣を掛けてきて、その証言を利用して学会の弁護士二名が私を警察署に告発したという、いきさつのある人でした。幸いこちらの弁護士が学会問題に慣れていたということと、担当の刑事・検事が公平な方だったので、不起訴となって終わりました。
 しかし、その後、私が何度もTさん宅へ足を運び、折伏をしていく中で、現証が出始めました。
 Tさんは、息子さんと二番目の弟さんに自殺をされ、生活上にもいろいろなことが起きてきて、「これが田中さんの言っていた罰なんだ」と気が付き、本山へ行きたいと言い出されました。そして、「都内に住む九十九歳の母と弟を折伏して欲しい」と言われましたので、さっそく翌日、二人を訪ねて折伏し、信心させることができました。

 この田中さんに限らず、帰伏した方々は皆、学会の邪義に気付き、日蓮正宗に帰ってきておられ、本日も皆でこの総会に参加しています。
 このように、学会の邪義を真っ向から破折せよ、との講中の方針に従い、折伏に励んでくる中で、ついに、長年の学会時代の謗法の罪障が絞り出された、と思われる体験をしました。
 といいますのは、今年の三月末、私は、いやいや六十歳の定期検診を受けたのですが、自分では何の自覚症状も無かったのに、たまたま肺に影があるのが発見され、肺ガンの三期と診断されました。四期が末期ですから、すでにガン細胞は三センチという大きさにまで育っており、リンパ節にも二つの転移が見つかりました。あとから聞いたのですが、肺ガンの三期といえば、もう完全に手遅れで、ほとんど助からないそうです。

 肺ガンと聞かされた瞬間に、「罪障消滅は折伏でするしかない!」との、日頃の大草講頭のご指導が頭に浮かびました。そして、「しめた!肺ガンならば勝てる」と思いました。食道ガンや咽(のど)のガンと違い、食べられて話せて、歩ければ折伏ができます。だったら恐れずに、今こそ折伏に突き進めば良い、と思ったのです。

 その日から私の祈りが変わりました。「御本尊様、この命をガンなどで失わせないでください。折伏ゆえの法難であるならば、打たれ、刺され、たとえ血みどろになっても、喜んで命は捧げます。せめて、この命を長らえ、創価学会のどてっ腹に風穴を開けるためのお手伝いを、何としても大草講頭の元でさせてください」と御本尊様にひれ伏し、泣きながら勤行・唱題をさせていただきました。

 そして五月八日の夜、私は、本山より当病平癒(とうびょうへいゆ)のための御秘符(ごひふ)を頂戴し、東川部長をはじめ主人、和地班長ご夫妻の唱題の中、心中で唱題しながら服させて戴きました。
  部長からは「『御秘符』は薬ではありません。猊下様が不自惜身命(ふじしゃくしんみょう)のお立場から御祈念くださるのです。お取り扱いは御本尊様と同じですよ」とのご指導をいただきました。「もったいなくも自分ごとき者の体内に御本尊様が…」と、主人共々涙が止まりませんでした。

 その後、すべての検査が終わって六月十七日、国立ガンセンターへ入院となりました。治療は、すでに手術ができる段階ではないため、抗ガン剤を2クールと放射線治療を三十回行なうことに決まりました。

 しかし、この治療とて、後からわかったのですが、単なる気休めのようなものであり、それでガンが良くなる人はほとんどいない、というのが現実だったのです。
 ともあれ、こうして入院治療が始まりましたが、一口に言って入院生活はとても快適でした。不思議なことに、抗ガン剤が身体に入っても、放射線を毎日照射(しょうしゃ)されても、一切の副作用が出てきません。
それどころか、食欲がありすぎて、病院の食事が待ち遠しくて困るほどでした。

 通常、治療中は副作用によって激しいおう吐(と)を繰り返し、放射線が食道内部を焼くのでやけどの状態になり、水も飲み込みづらくなります。しかし、私の場合は、吐き気もなければ、食道内部のやけど状態すら起きなかったのです。だから、飲食にも全く差し支えがありませんでした。

 また抗ガン剤を投与すると、普通は、白血球の数値が著しく下がって、抵抗力も無くなります。白血球が減ると感染の恐れがあるため、週末の外泊どころか外出もままならないのですが、私は入院中、全く白血球が減らず、毎週末に外泊を許されていました。許可が出る前に当然のように外泊の準備をしている私を、主治医も看護師さんも、なかば呆れたように見ていました。

 そして、外泊許可を取って、月例御講も夏期講習会も参加させて戴き、さらに折伏と総会結集のために動き廻らせて戴くことができました。
 なぜ末期に近い自分の身体がこれ程までに軽いのか?答えは判っていますから、病院の中でも「障魔よ来たれ、敵来たれ…」と獅子吼の歌を口ずさみながら、下種する相手を捜し廻って歩きました。

 同じ階の患者さんから、「なんでTさんばかり吐き気も無く、髪の毛も抜けないの?食欲もあるし、不公平だよ!」と言われたり、また 「Tさんの側に居るとパワーがもらえるから、みんなTさんの脇に集まりな〜」 とまわりに呼び掛ける人までいて、私は集まって来る人たちに、ここぞとばかりに、学会の極悪非道を話します。

 その中で、黙って下を向いてしまうのが学会員だと当たりがついてきて (笑い)、その人が一人でいる時に 「そんな不幸な顔をして、もしかしたら学会員じゃないの?」と折伏を始めます(笑い)。

 とにかく病院の中では、重いガンであるのに健康でいられる、という、この自分の身体こそ実証であり、折伏の武器なのです。 そうした折伏の結果、舌ガンの方が帰伏することができました。(拍手)

 又、時を同じくして、長い間、行方不明であった学会時代の知人から連絡が入り、こちらも折伏し、帰伏に至りました。

 幸い御本尊様のお供をしての入院でしたから、朝晩の勤行は御本尊様の御前にてさせて戴き、外泊しては折伏に廻り続けました。

 七月二十日、何度目かの外泊時のことですが、つくば市の学会大幹部を折伏したところ、ちょうど肺のあたりを強く突き飛ばされました。このとき私は、「これで告知されてから三人の学会員に、肺のあたりを突き飛ばされた。罪障消滅も進んだに違いない!」と確信しました。

 そして、その四日後の七月二十四日、まだ放射線治療が五回残っている段階でしたが、主治医からレントゲン写真を見せられて、「肺にあった三センチのガンは跡形もなく消えています」と告げられたのです。(拍手)

 「御本尊様ありがとうございました。」と、それ以外、何も頭に浮かびませんでした。そして、八月二日にさらに詳しく検査をしたのですが、その結果、リンパ節にあった二つのガンも見事に消えていたのです。

 この、治る見込みのないガンが完全に消滅してしまう、という現証には、医師も首をかしげ、「とりあえず退院してもらって、その後、どうしても、もう一度検査したい」と言って、八月十日に再度、造影剤を入れて徹底的に検査しましたが、やはりガンは全く消えてしまっていました。

 私がガンの告知を受けて以来、東川部長をはじめ他の班長・班員さん達が、丑寅の時刻に勤行をしてくださいました。また、「田中を助けるためには一丸となって折伏していくしかないのだ!」と、固い決意をして、共に動いてくださいました。この場を借りてガンを克服した御報告と御礼を申し上げます。本当にありがとうございました。
 思えば入信以来、御本尊様より数々の功徳を戴いてまいりました。日頃から「御報恩の折伏を」等と言っている自分ですが、今こそ御報恩の折伏に奮い立たねば、不知恩となります。

 昨年の総会において、大草講頭は、「御法主上人猊下への御報恩と御健勝(ごけんしょう)を祈り、我々が猊下にお応えする道は、大謗法の池田創価学会を徹底的に折伏し、その野望を打ち砕くことのみである」と発表されましたが、その御指導を、今こそ、実践するのだ、と強く決意しております。

 そして、幹部であろうと池田教の狂信者であろうと、徹底して折伏し抜いていこうと、古い学会員名簿の洗い直しや、公明党の看板のチェック等を続けているところであります。
 今年は池田創価学会が御宗門より破門されて二度目の七年にあたります。一日も早く学会を崩壊させるべく、まだまだ未熟な自分ではありますが、『悪は多けれど一善に勝つことなし』との御金言をしっかりと心肝に染め、御法主日顕上人貌下の御指南に従い、妙観講の一員として、破邪顕正のために悔いなき闘いをしてまいります。
 皆様、よろしくお願いいたします。(大拍手)

田中美佐子さんの事

第五十一支区 東川 浩部長
 平成十九年二月二十七日、田中美佐子さんがお亡くなりになりました。平成十五年二月にTさんが妙観講に入講して以来、四年間にわたり、最も間近で一緒に信仰をしてきた同志として、それまでの経過と、御本尊様の厳然たる大功徳についてご報告させていただきます。

 田中さんは平成十七年八月の第二十七回総会において、ほぼ末期の肺ガンを消滅させた体験を発表し、参加者全員に大きな感激を与えました。田中さんの凄(すさ)まじい折伏の道念・徹底した折伏の実践により、奇跡的な御本尊様の御加護が現われたことに、多くの講員さんが奮起し、発心を新たにしました。

 こうして田中さんは、一旦はガンが消え、命を長らえる、という功徳を頂戴したのですが、その後、再びガンに侵されるところとなったのです。私は愚(おろか)にして、それを知らずにいたのですが、徐々に田中さんの体力は衰え始め、平成十八年の後半からは、私の目から見ても衰えが明らかでした。

 平成十九年一月後半、田中さんの病状と信仰を心配された佐々木支部長が、家庭指導に行ってくださいました。田中さんは、支部長の慈悲溢れる指導に感激して、涙し、「これまで自分は怨嫉(おんしつ)などの謗法をくり返してきてしまいましたが、今はただただ自分の信仰を懺悔(ざんげ)して、過去からの罪障が消滅できるよう、御祈念していきます」と答えていました。

 しかし、二月に入って、私が仕事で奈良に出張していた際、田中さんの娘さんから電話が入りました。「じつは母はガンで、すでにリンパ節にも転移しています。医師から余命は僅かであり、二月下旬から三月上旬であろう、と宣告されています。母は東川部長に会いたがっています。会いに来てもらえないでしょうか?」 との悲痛な訴えでした。無念なことですが、この時、私は初めて田中さんの病状を知りました。

 田中さんは総会の体験発表において、自ら「学会時代に作ってしまった謗法の罪障を洗い流したい」と語っていましたが、やはり学会時代に刻んできた罪障は軽くはなかったのでしょう。

 出張から戻った私は、田中さんから申請のあった御秘符を携え、田中さん宅を訪問しました。そして、家族の方々と共に読経・唱題し、謹んで御秘符を服させていただきました。

 その後、田中さんは、「御秘符のおかげで身体の痛みがかなり楽になってきました」とにこやかに語っていました。

 翌二月二十七日の午後四時すぎ、再度、田中さんの娘さんから電話が入りました。Tさんが危ない状態となり、家族を皆集めるようにと、病院から指示があった」とのことでした。私はすぐ講頭に連絡し状況を報告すると、「田中さんの耳元でゆっくりと唱題するように」と指導いただきました。

 私が午後七時頃に病院に到着しますと、田中さんは酸素吸入器を付けており、深い呼吸をしながら眠っていました。すでに田中さんのご主人、お子さん、お孫さんの多くが集まって、必死で唱題をしていました。

 御守御本尊に向かい、家族と共に皆で真剣に唱題を始めました。午後八時半すぎ、徐々に呼吸が浅くなってきたことに私が気付き、医師を呼んでもらいました。皆で唱題を続ける中、午後八時四十二分、田中さんは静かに息を引き取られました。その臨終は、何の痛みも苦しみも感じていないかのように、静かに訪れました。心電図の表示がなければ誰も気付くことのないような、安らかな臨終でした。

 私は、田中さんの死という現実に直面し、五十一支区の宝を失くしたようで涙が止まらず、ただただ唱題し成仏を願うのみでした。

  三月一日通夜、三月二日告別式には、ありがたいことに法務極めて御繁多(はんた)な中、小川御住職御自ら、葬儀に茨城県土浦市まで、おいでいただくことができました。告別式にはたいへんお忙しい中、大草講頭も参列してくださいました。

 また、生前に田中さんと折伏で交流のあった青森市専妙寺御住職・沼田御尊師には、Tさんが亡くなった翌朝の勤行と、告別式の時間に合わせて、ありがたくも御塔婆を建立し追善回向の御祈念をしてくださいました。

 果たして、田中さんの遺体の相は、誰もが驚くような、たいへんきれいな姿でした。生前交流のあった土浦市の本妙寺支部の講員さんも数多く弔問されましたが、真っ白で眠っているかのような安らかな相と、念珠をかけた手もフニャフニャで死後硬直のまったくない、その遺体の柔らかさに驚いていました。

 私はこれまで、出棺までの間、皆で唱題していく中、いっそう善相になっていくという
例を何度も見たことがありますが、田中さんは臨終から一貫して、きれいな成仏の相を示していました。まさに御金言にお示しの
 「善人は設ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる。又軽き事鵞毛(がもう)の如し、軟らかなる事兜羅綿(とろめん)の如し」 (御書一二九〇ページ)
 「死すれば光を放つ、是外用(げゆう)の成仏と申す」 (御書一〇九ページ)」
の仰せのとおりでした。

  小川御住職からは「きれいな相でしたね」とのお言葉を頂戴し、さらには「田中さんは、一生懸命に折伏をしていたから」との理由で「広説院妙美大姉」という大姉号を頂戴いたしました。
生前交流が深かった地元の和地班長は、最後、お別れの際に、田中さんの首の周りを幾度も触っていました。リンパ節のガンのため、首のあたりに数珠状に大きな腫瘍がいくつも発生して、ボコボコになっていた筈が、きれいに消滅してしまっていたそうです。

 今回の田中さんの臨終に関して、私は、とくに次の三点を痛感しました。
まず第一点目として、「田中さんは結果的に亡くなられたが、肺ガンの末期状態から、いったん病気を克服して、延命することができた。命の長さは業によって定まっているけれども、その死すべき命を長らえて二ヶ年も延命することができたのは、御本尊の大功徳であると知らなければならない」ということ。

 さらに第二点目として、「リンパ節の腫瘍が消えてなくなってしまったことからも、ガンという業病自体は克服できた。しかし、克服したとしても、すでに肉体が修復不能なまでに損傷してしまっていれば、もはや、死ぬという形をとって、新しい健康な体を得るしかない。臨終の相が成仏の相であったということからも、Tさんは業病を仏法の功徳で克服しており、また元気な体をもって生まれてくることが明らかである」ということ。

 最後に第三点目として、「さらに言うならば、前々からの信仰の仕方によっては、さらに命を長らえることができたであろう」ということ。この点につきましては、私自身、支区部長としての信仰と責任の上から深く反省・懺悔しなければならない点です。私が、もっと適切・的確に田中さんの手を引いて上げられていたら、田中さんは、さらに功徳を積み、延命できていたかもしれません。
 私達は、大切な講員さんの命と成仏を預かっているのだ、という事実を重く受け止め、今後の育成について、厳格に取り組んでいくことを誓うものです。

 田中さんが妙観講に入講して以来、四ヶ年に渡って、活動を共にし、その臨終までの間に、私は多くのことを田中さんから教えてもらったように思います。今後は、田中さんが心から願っていた学会の折伏においても、田中さんの分まで精いっぱい励み、その功徳を回向できるように頑張ってまいります。
 

「法華講の信仰を妨害せよ」の号令か?  投稿者:HP執行部  投稿日:2007年 6月 8日(金)23時22分51秒
  専妙寺支部 加藤 透

《平成18年7月 清流より》

先月の、六月十八日、岩手県二戸市安穏寺で行われました「広布推進会」で、
折伏活動報告をさせていただきました。
その時、
「四月中旬頃に、創価学会からだと思われる投書が私の勤務先に届きました。
出勤すると副所長から呼び出され、批判・中傷だらけの投書について
問いただされました。

私は、日蓮正宗の信心をしていること、創価学会を折伏していることを説明し、
その反動として、おそらく創価学会から投書されたと思われること、
何も恥じるような事はしていないと断言」しました。

と、私に対する信仰、信教の自由を妨害する卑劣な投書が、
差出人不明で会社に来た内容をお話しさせていただきました。

ところが、功を奏しないと思ってか、再度、今度は仙台の勤務先に
私の上司あてに届きました。
その消印は、なんと、横浜の消印でした。この投書の内容は、私が去る五月の連休中に
折伏に伺った方が、横浜に住んでいる方に相談されて、その相談された方からの
投書という体裁でした。なぜ本人がしないのでしょうか。

私たちの折伏は創価学会だけではなく、一般宗教もありますが、
たまたま五月の連休中に折伏に伺ったところは、
全部創価学会員のお宅でした(御住職への報告書あり)ので、
この投書は創価学会によるものであることは、自明の理であります。

さて、投書の主な内容は、「帰れと言ってもなかなか帰ってくれない」とか、
「話しを聞いてくれないと憤慨して帰っていく」とか、
たいした内容ではないものでした。
しかも、当事者がわからないように、お伺いした日付とか、氏名は書いて無く
ただの批判に終始しているだけでした。

これを受け取った上司も、なぜこういうイヤガラセをするのかと、
全く理解出来ないようすでした。
そこで、私は、創価学会がどういう団体であるのかを説明できる良い機会だと思い、
上司にキチッと説明することにしました。
創価学会はもともと日蓮正宗の信徒の集まりによる外護団体であったこと、
ところが信徒数の大幅な増加や、それによる池田名誉会長の増上慢により、
日蓮正宗の教義から逸脱し指導を聞かなくなり、結果、日蓮正宗から破門されたこと、
そのことにより、間違った創価学会を脱会した人たちに対して、
池田創価学会は様々な嫌がらせをすること、
その一例が私に対する投書となったと説明しました。

そして私の活動は信仰者として、間違った信心をしている創価学会員に対して、
正しい信心をしてもらうために折伏をしている。
ですから、常識のある行動を取らなければならないので、
投書にあるような非常識なことは絶対にしていない等と説明しました。

狂ってしまった学会幹部たちは、今後も様々な形で誹謗中傷の投書をしてくるでしょうが、
どこまでも私は慈悲の心を持って、常識な対応して洗脳された
可哀想な創価学会員を少しでも堕地獄から救うために、
ますます折伏に精一杯頑張りたいと思っています。

現在、壮年部は週一回ですが折伏活動を行っています。婦人部は毎日行っています。
私も時間が許す限り、少しでも大聖人様の広宣流布のお手伝いと、
来る平成二十一年の立正安国論正義顕揚七百五十年の大佳節に向けて、
地涌倍増の御命題達成のため全力を尽くしていきたいと思います。

尚、上記体験談は、専妙寺支部HPより転載許可を得て掲載しています。
 

折伏行に諸天の加護  投稿者:HP執行部  投稿日:2007年 6月 8日(金)21時33分10秒
  清涼寺支部 加藤枝里

私達は常日頃から御住職様に折伏はいつどんな時でも行える信心が大切であると
教えられています。今日は過去に行ったある本屋での折伏のお話をさせて頂きます。
それは東京のある書店の宗教コーナーで「新・人間革命」を手に取っている男性を
見かけたことから始まりました。

私は「創価学会の方ですか?」とその男性の真横に立ち、訪ねました。
その人は同じ学会員に声をかけられたと思ったのか、「えっ、はい」と
私の方に顔を向けながら答えてきました。店の中でもあるので、お互いの声が
やっと聞こえる程度で話をしていました。そして私が「私は法華講の者です」と
口にした途端、その男性は「敵だな、何の用だよ!」とすごい形相になりました。

私は「日蓮大聖人様の教えから逸脱した創価学会にいる方を見て、
見ぬふりはできません。それが大聖人様がおっしゃる大慈悲の折伏ですから」と、
血迷った凡夫の指導者を本尊のように思いこんでいる彼に、
あえて大聖人様のお名前を繰り返しました。

学会員は「折伏?法華講は何もしてこなかったろう。広宣流布って知ってるか?」
というものですから、
「今あなたが言った広宣流布とは何ですか?大聖人様の正しい仏法を広めることが
広宣流布というのです。大御本尊様もなければ血脈相伝もない団体が、
何を人に勧めるのですか?大聖人様の仏法でないものを弘める事が謗法であることぐらい、
昔の創価学会の指導を聞いて承知していませんでしたか?」

この言葉に対し学会員は「血脈?関係ないよ。仏法は勝負なんだよ。幸せだし、
いい現証が出てるの」と言います。私は「現証は、創価学会の一方的な言い分と
資料だけでは判断できません。まず事実を見てください。
それに大御本尊様から離れて幸せがないことは確かですよ。
御開扉を受けられたことがあるなら、思い出して下さい」と言うと、
一瞬、間があり「破門したからだろう、突然」と言うので、
「やはり事実を知らないのですね。私はお伺い書から始まって、
ずっと経過を見てきています。学会員は目をそらされていたんですよ。

御宗門は何回かにわたって学会員に向けて通達を出されています。
あなたにその資料をお見せできます。あなたは是非、現実から目をそらさずに
事実だけを見て下さい」
このようなやり取りを交わしている間、書店の店員さんは私達の側には
一度も来ませんでした。

ところが、私達の本棚の前を何度か通っていた女性が突然「それが創価学会の姿だ、
その態度!」と吐き捨てるように言いました。
その女性の急な出現と言動に学会員は驚き、さっきまで怒りのために
大きくなり始めていた声をひそめ、その女性を見下す視線を送り、
そして私に対し、まるで私達が仲間であるかのように目配せをしてきました。
それまで私を親の敵のように扱っていたのに、ウソのように翻したその姿に、
本当にあきれました。

女性は学会員に、「あなたは何一つこの女の人の話に答えていない。
この人の言っている事は筋が通っているし、真面目にきちんと話をしているのに、
あなたの態度はさっきからとても酷い。学会にいると非常識になる。
私が疑問を持った時に指導を受けた学会の婦人部長は何も答えられなかった。
それなのに会社までしっこく押しかけてきて、そのせいで私は全てを失った」と
訴えるように言いました。

彼女の声がだんだん大きくなり始めてきたので、私が「そうですか」と相づちを打つと、
私の後ろに下がりだしていた学会員は「仲間だったのか?あんたの」と
憎らしげに言ってきました。私は「いいえ、今はじめてお目にかかりました。
ここでは迷惑になりますから、外に出てお話しましょう。とても大切な話ですから」
といい、三人で書店の外に場所を移しました。

女性は、創価学会の中で起きた自分の体験を話し続けました。学会員は困った表情になり、
「僕には関係のないことです」との一点張りで、自分が逃げ帰った
と言われたくないらしく、その場でイライラしながら女性の話を聞いていました
女性は「幹部の言いなりになっている学会の体質の中にいて私自身も
それに従っていたせいで職を失い、精神科に通わなければならないという結果に
なったそのような私に対し、幹部は責任逃れをし、避けだした。
病院では私と同じようなケースがいくつもあると聞いた」と言い、更に、
「このような現証を受けたのは、学会幹部を信じ日蓮大聖人様の教えに背いた結果で
あると分かった。あなたはそんな組織にいるんです。恐ろしいことです」と
学会員に話すと、彼は反論することができず、「これ以上、話をしても
意味がないので帰りますと慌てて去って行きました

書店の外に出て話をしていた時、法道院支部の友人が加わっていました。
私と友人はこの女性に対し「一緒に日蓮正宗のお寺に行きましょう」と
二人でお誘いしました。

しかし彼女は学会にいた時から、お寺に行ったら恐ろしいことになると脅され、
今もお寺に行ったと知られた、命に関わることをされるかも知れないと話してくれました。
私達は彼女にそのような不安は誤ったものでり、お寺に行くことで
今の境涯を変えることができると話をしました。するく彼女は意を決したように、
「たとえ命を失っても良いです。私は学会のこセ本尊を突き返してから半月の間、
空に向かって(大聖人様、助けてください。真実を教えて下さい。)と
祈り続けてきました。ずっと必死でした。何が起ころうとも
御本尊様にお会いしたいです」と力強く言いました。

彼女は私達に両脇から支えられながら、法道院の山門をくぐることができました。
そして三人で御宝前に向かい、最前列に座り、お題目を唱えまし。
私はその時、金色に光り輝く御本尊様を大変有り難く拝させていただきました。

私はこの女性が法道院の近くに住んでいることから法道院に縁を結ぶことが
一番良いことだと思い、法道院の友人にあとのことは任せて帰宅いたしました。
翌朝彼女は法道院で行われる広布唱題会に自転車でかけつけ、唱題会が終わった後、
友人の紹介により勧誡を受けることができました

現在、彼女は近所の学会員に創価学会の真実の姿を伝えるため、
通りやお風呂屋さんなど、人の集まる場所に行くたびに声をかけ続けているそうです。
通院先で知り合った学会員にも熱心に話し、昨年はー人を、
今年の一月にも一人を勧誡に導かれたそうです。

外に出ての折伏中、背後から創価学会の老人に殴られたり、
学会にいたことによる罪障のせいか、精神的に苦しくなるときがあるそうです。
その度に、今世のうちに正法に戻ることができたことを感謝し、
御本尊様への御報恩のため、外に出て折伏に励むのだそうです。
またそうしている時が一番気持ちよく、心が楽な状態になれるというのです。

私は彼女が行っている御報恩の折伏は相手の抜苦与楽はもちろんですが、
彼女自身の抜苦与楽にもつながっていると思いました。
彼女は、「あのとき加藤さんが学会員を折伏している所に出会うことで、
私は御本尊様の元に戻ることがでさ、命拾いすることができたんです」と
喜んでくれました。
私も「お互いの命が救われたと感じていますjとお答えしました。
御法主日如上人猊下は、「折伏は、やはり実践しようと思えばできるのです。

結局、己心の魔に負けてしまって「あの人は無理だ」と
決めつけてしまっているだけなのです。そのような意識であってはなりません。
ですからやはり一向に法華経を説くという事が大事なのです」(第二期夏期講習会)と
御指南下さっておられます。

あの本屋で勇気を出して学会員に声をかけ、その誤りを破折したことが因となり、
彼女に出会い、彼女が再び御本尊様の元で信仰するという結果になりました。
そして、私はその彼女が病気で苦しみながらも一人、また一人と折伏し功徳を
頂戴して幸せになっていく姿を見て、本当にうれしく思っております。

日蓮大聖人様は『御義口伝』に「末法に於て法華を行ずる者をば諸天の守護之有るべし」
(御書一七六三)と仰せられています。

私が学会員を折伏した時、彼女が偶然通りかかり、学会員の誤りを自分の体験から
厳しく指摘してくれました。それが私には驚きと同時に大変大きな助けとなりました。
まさに彼女は私にとって諸天の加護であり、大御本尊様のお力の不思議さ、
素晴らしさを感じることができました。

私も彼女に負けず、「平成二十一年『立正安国論』正義顕揚七百五十年」における
地涌倍増と大結集の御命題達成を目指し、本年「行動の年」を
己心の魔に破られることのないよう、御法主上人猊下様の御指南のままに、
勇気ある行動をもって折伏行に頑張って参りたいと思います。
ご静聴ありがとうございました。

千葉布教区 広布推進会報 第3号

尚、上記体験談は、専妙寺支部HPより転載許可を得て掲載しています。
 

学会員の妨害行為を折伏の励みに  投稿者:HP執行部  投稿日:2007年 6月 8日(金)21時18分58秒    編集済
  千葉県・清涼寺支部 副婦人部長 福井和子さん

私は、今から十年前に法華講に入講させていただきました。
御報恩感謝と自らの罪障消滅のために、現在の一凶である創価学会を折伏する中で
起きてきた事柄をお話させていただきます。

平成十六年の秋、御住職様より『学会員さん、折伏教本を読みましょう』と題した、
学会破折資料を作っていただきました。毎月一度発行されるので、その度(たび)に
学会員さんの家へ配布いたしました。

その年の十二月五日、学会員さんの家へ折伏に訪れたところ、「話を聞きなさい」と
近所の学会員の家へ案内されました。
そこの御夫婦と話をしていると、後から学会男子部の
「教宣部」が三人で部屋に入ってきました。なかでも中心者のAさんは、
熱心な池田信仰者である私の兄の若い時にソックリでした。
この人を折伏することは兄の折伏に繋(つな)がると思い、何とか目覚めてほしいと
思いながら話をしましたが、力が及ばず、あっという間に五時間が過ぎていました。

彼等は創価学会が正しいと思って、一所懸命やっているのでしょう。
しかし、間違ったことを信じていれば不幸になる。彼等の姿は、自分の過去の姿を
見ているようでした。
帰り際(ぎわ)に、学会男子部のBさんが、
「今後も学会員の家へ廻るようなことがあれば、美浜区中の学会員が相手になりますよ」
と言っておりました。
その年の暮れに、学会男子部のAさんが本を持って我が家に来ました。
翌年の一月末には、Bさんが「本部から言われて来た」と言い、
学会員へ手渡した資料を返しに来ましたが、その後も諦(あきら)めずに配布を続けました。

半年ほど経った平成十七年八月六日、私は法華講の人と二人で、
自分の住む集合住宅の学会らしき人の家を折伏しに行きました。
すると、その翌日の夜八時半頃に、学会男子部のAさん、Bさん、Cさんが家に来ました。
ドアを開けると、「Sさんのところに行きましたね。
学会員のところへ廻ったら来ると言ったでしょ」と言います。
「Sさんのところへはもう廻るな」という用件でした。

私は三人に「ご自分の住所と電話番号を書いてください」と、ノートを渡しましたが、
拒否されました。「私の家に来ておきながら、こちらが住所を尋(たず)ねても
教えられないのは、道理が通っていません。謗法だからそうなるのですよ」と、
御住職様から教わったことを伝えました。Aさんは「謗法とは何ですか?
御書で示してください」と、インデックスのたくさん付いた御書を持って問いかけてきます。

私が「謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり」(御書六〇八頁)
と御書の文証を一つ答えても、また次の問いがきます。教学力のない私は、
深く追求されると言葉に詰まってしまいました。
夜も遅いので、「ご本人が来ないでくれと言うのなら分かりますが、
あなた方が言うのはおかしい。私はあなた方の家には行っていませんよ」と言って、
帰ってもらいました。

この出来事により、私は過去に自分が、間違ったことを人に勧(すす)めて、
きっと恐い思いをさせてきたんだろうなと思いました。なので、学会男子部が数人で
押し掛けてきて恐い思いをするのは、過去の罪障が一つひとつ消されてきている証拠だから、
彼等に感謝しなければならないと思いました。
その後も、学会員への配布を続けておりましたが、
「入れないでくれ」と電話があったり、「無差別に入れているのか?名簿があるのか?」と、
こちらの動きを探りに来ましたが、「布教の自由です」と伝え、
答える必要のないことには返答しませんでした。

十月に入り、御報恩御講の日に、学会の男子部が「法華講海浜地区の近藤勇」だと
偽(いつわ)り、本堂の最前列に座っていました。御講終了後に、
御住職様が不審に思って話しかけたところ、逃げようとしたので発覚しました。
ありがたくも、御住職様より直々に破折された彼は、
翌日にお詫(わ)びの電話を架けてきたとのことでした。しかし、お寺のノートに
記載された彼の住所を調べたところ、そこは商社ビルで居住区ではありませんでした。

二ケ月後の十二月の御講終了後に、学会男子部六人が御住職様に話があるといって
お寺に来ました。その中の一人が自称近藤勇さんだったので、
私は「この前の住所は違っていましたね」と言うと、「さあ?」と、とぼけた返事でした。
「私は海浜地区の者ですが、勘違いかも知れないのでもう
一度住所を教えていただけますか?」とメモを差し出しましたが、
学会男子部に遮(さえぎ)られてしまいました。

どうやって調べたのか、後日に自称近藤さんが我が家に来たそうですが、
私は留守にしておりました。

大晦日になって、また学会男子部が三人来ました。
用件は、「Mさんのところへ廻らないでほしい。本人から頼まれて来た」と言います。
「本当にご本人がそうおっしゃっているのかどうか分からないので、
直接ご本人に確認に行きます」と、返答をしました。一冊の本を渡し、
「あなた方はまだ若いのだから、正邪をよく見極めて、
これからの人生を大切にして幸せになっていただきたい」とお話をしました。

翌日の平成十八年一月一日、学会男子部の自称近藤勇さんとCさんが来ました。
ドアを開けると「福井和子さんですね。この前お寺でお会いしましたね。
今日は折伏教本を読んでいる一人として来ました。あなたは謗法です」と、
いきなり話し始めました。

「ちょっと待ってください。そういうお話をする前に、人として信頼される行動を
しているかどうか、よく考えてみて下さい。あなたはこの前、
御講に法華講海浜地区の者だと偽って入っていきましたね。
お寺の書類に住所と名前と携帯番号を記入していましたが、
住所も携帯番号も違いじゃないですか。
嘘偽りを言っているじゃないですか」と言うと、
「それは方便です。そんなこと、どうでもいいんです。
お寺に住所を言いに行っている訳じゃない」
と開き直ります。本名を聞いてもとぼけています。
「嘘偽りを言っても方便だと開き直る。それが学会ですか?
嘘偽りの団体じゃないですか。謗法をしているからそうなるんですよ」と言うと、
「学会のどこが謗法なんだ。広宣流布の団体を一方的に切ったんだ。

あなたは謗法の手先だ」と大声で言ってきましたが、
「信仰の話をする以前の問題です。きちんと自分の態度を正してから来てください」と伝え、
ドアを閉めました。ドアの向こうで「ハイ、法華講の負けですね」と、
捨て台詞(ぜりふ)を吐(は)いて帰って行きました。

彼の非常識で無責任な態度に、私は怒りが込み上げてきました。
しかし、こちらが興奮して声を荒げていては折伏にはならないし、
どんな相手に対しても冷静に対応できるようにならなければいけない。
それにはまだまだ修行が必要だと、自らの末熱さを感じました。

平成十八年、初登山の決起大会において御法主日如上人猊下より、
折伏に臨(のぞ)む時の心得としての「衣座室の三軌」の御指南を承りました。
柔和忍辱(にゅうわにんにく)の衣も、不自惜身命の修行も、大慈悲の心も、
何もかも私には欠けていたと深く反省をいたしました。

二月に入ると、毎週のように学会男子部が来ましたが、自称近藤さんが来た時には、
「あなたが来ることによって、私は信心が強くなれるわ。ありがとう。
一緒に日蓮正宗の信心をしようね」と言いました。

来る学会員の中には、何回来ても名前も名乗れない無責任な人がいます。
「配布を止めないと訴えると言っていますよ」と言いに来る人もいます。
御住職様は、「今の学会を折伏するのには、難しい教義を説明しなくても、
彼等が騙(だま)されていることを気付かせてあげればよいのですよ」と、
御指南くださいます。いまだ折伏成就には至っておりませんが、
怯(ひる)むことなく前進してまいりたいと思います。

大聖人様の御書に、
 「人をよくな(成)すものはかたうど(方人)よりも強敵(ごうてき)が
人をばよくなしけるなり」(御書一〇六三頁)
「行解(ぎょうげ)既に勤めぬれば三障四魔紛然として競ひ起こる、
乃至随ふべからず畏(おそ)るべからず。之に随へば将(まさ)に人をして悪道に
向かはしむ、之を畏れば正法を修することを防ぐ」(御書九八六頁)
 この御金言を胸に、今日よりまた精進してまいります。

『慧妙』平成18年10月1日付

尚、上記体験談は、専妙寺支部HPより転載許可を得て掲載しています。
 

大白法より  投稿者:麻畝広布  投稿日:2006年 9月 7日(木)22時49分50秒
  体験発表 『顕正会12年間の呪縛が解けて』

大宣寺支部・大野勝保

私は、昨年の10月18日に御授戒を受けました。それまでは、かって日蓮正宗の一法華講でありながら総本山から解散除名処分を受けた妙信講が、後に改称した顕正会に、12年間籍を置き、活動していました。私の家では、祖父が昭和28年に日蓮正宗に入信し、昭和50年に他界するまで創価学会で活躍していたそうです。両親は入信していたものの、あまり熱心ではなく、祖父の死を機に創価学会をやめ、日蓮正宗の信仰とは全く無縁の状態となりました。そして平成3年4月に私は再び御本尊様と縁をすることとなりましたが、それは顕正会だったのです。

 6年ぶりに会ったかつての同級生の熱心な勧めにより、日蓮大聖人の崇高なるお振る舞いと仏法の透徹した道理に感嘆し、また「お金は一切かからない。功徳の体験がなければいつやめてもよい」という甘い言葉を信用して、素直に顕正会に入信してしまいました。最初は違和感を覚えた会合や活動も、しばらくすると染まってくるもので、浅井会長のアジ演説と先輩に後押しされ、21歳という多感な青年期と相侯って、顕正会こそ宗祖の御遺命を守る唯一正しい団体と信じ込み、活動に没頭するようになりました。やがて、男子部の班長、支隊長、総支隊副長と役職を与えられ、広宣流布に戦うのは顕正会しかないとの誇りと使命感のもと、「誓願」と称する勧誘ノルマを見つめ、毎日のように深夜まで活動しました。時には明け方まで及ぶこともあり、多くの人を巻き込んで、多大な迷惑をかけてしまいました。

 そのような中、以前同僚だった大宣寺の法華講員・江村さんをしつこく勧誘し、入会させてしまったのでした。しかし、幸いにも江村さんは、かの独裁国家を彷彿とさせる「総幹部会」という会合に嫌悪感を示し、顕正会の経文に諸天供養がないことや大幅に簡略化された顕正会式勤行に疑問を述べ、また、ノルマ本位の強引な布教方法に呆れ果てすぐさま、顕正会を辞めていきました。このときの縁が、後に私を正法へ導く縁となったのでした。


 そして平成10年、本門戒壇の大御本尊様が正本堂より奉安殿に御遷座されると、顕正会では「御遺命守護完結」として歓喜に沸きました。ちなみに当初、「御遺命守護完結」とは、大御本尊御遷座の他、宗門に国立戒壇論が蘇り顕正会が宗門復帰することを意味し、晴れて御登山が叶うとされていました。しかしこれら会員の夢だったことが反故にされたのは申すまでもなく、釈然としない気持ちが残りました。そのようなときに、江村さんと再会しました。江村さんは、元顕正会員で現在、法華講妙観講支部の渡辺雄二氏の著書『顕正会からの脱出』を元に、顕正会の誤りを破折してきたのですが、私は話を全く聞こうとせず猛反発し、顕正会の自説を一方的にまくしたて、勝ち鬨(どき)をあげるといった始末でした。

 不可能だと思っていた大御本尊御遷座が本当になってしまうと、浅井会長は宗門復帰を全く口にしなくなり、もう宗門に望むものは何もないと言いながら、かえって宗門や御法主上人に対する誹謗は激しくなり、顕正会はますますおかしな方向に走っていきました。さらに「御遺命守護完結」の暁には、今までただの管長呼ばわりしてきた御法主上人を「『日達上人・日顕上人』とお呼びさせていただく」と言っていた会長が、突如「66・67代の御相承は断絶した。しかし、血脈は断絶せず」と意味不明な事を言い出し、66、7代は歴代上人から削除せよと、それまでの自説を翻しました。そして、次々と会館が建設され、そこには元日蓮正宗僧侶から受け取ったとされる、まだ真新しく見える大幅の日布上人御書写の御形木本尊が安置されていきました。また自宅拠点に安置されていた、日達上人・日顕上人猊下御書写の本尊は、出所も真偽も不明の日寛上人の本尊に懸け替えられ、「本当に正しい御本尊なのか。なんで顕正会はこれほど御本尊を持っているのだ」と大いに不安な気持ちになりました。

 それから御書講義の回数がめっきり減り、教学誌は廃刊となり、近年中に発刊予定だった御書全集も一向に発刊されず、会長ばかりが賛嘆されるようになりました。 その後、江村さんには顕正新聞を送り続けていましたが、江村さんのほうも『大白法』を送ってくるようになり、宗門動向が知りたかったので、情報として『大白法』を活用しようと読んでいました。読んで思ったことですが、浅井会長は、宗門や学会の動向について、発表の時期を遅らせたり、都合の悪い部分は知らせなかったりと、巧みに情報操作していることが判り、複雑な気持ちになりました。しかも冷静な目で両紙を比べると、顕正新聞からは大聖人様の伝統法義は薄れ、会長の絶対化ばかりが強調されるような印象を覚え、『大白法』の紙面のほうが充実しているように見え、悔しいことにかなりショックを覚えました。

 ちなみに顕正新聞は顕正会唯一の機関紙ですが、値段は『大白法』の倍の200円、郵送による1年間の定期購読をほぼ義務付けられています。幹部には購読部数のノルマが課せられ、前年度の1割増しのノルマが設定されているのです。しかし、どこも退転者だらけなのに目標は下がらないので、結果として幹部が自腹を切って目標部数の辻褄合わせをしていました。入会歴の長い会員になると、1人で50部あるいは100部と、負担する部数が多く、年間1部8500円は結構な出費で、定期預金や保険を解約したり、サラ金に駆け込む人も珍しくありません。私も、入信して1年経った頃、所属していた支隊が目標部数に届かなかったため10数部も負担することとなり、それ以来着実に負担部数が増え、部屋は顕正新聞で埋もれていきました。

 顕正会の活動のことですが、多くの組織が、以前にも増して成果だけが目的といった傾向に走り、その場だけ試しに勤行に参加した人も、「入信報告書」という書類に勝手に名前を記入され、入信者扱いされます。入信者が育とうが育つまいが、あくまで成果第一主義でしたので、相手の納得など二の次で、「とにかくやればわかる」「まず試してみろ」「やり方を覚えてみよう」と一度でも勤行させることに執着します。

 私の家は自宅拠点といって、顕正会の入信勤行を行う場になっていました。私の家は、他の組織もよく利用していたため、いろいろな現場を目の当たりにしました。「これより入信勤行を始めます」と言った瞬間、「試そうと言われただけです。なんで入信なんですか」と困惑する人や、入信勤行が終わった途端数珠をつき返す人も少なくなく、また、玄関の表に「お守り」を置き、勤行が終わった途端に「お守り」を返してと言う人、強引に連れてこられたのか隙を見て逃げ出す人などなど、どこの組織もほとんどが、「入信報告書」を隠して入信勤行を行っていました。顕正会は、死亡しても脱会のないシステムなので、会員数に引き算がなく、実態のない会員が増え続けていきます。成果に追われているため、深夜や明け方に「入信勤行をやらせてください」と頼まれることもありました。活動している人の気持ちは痛いほど判るので断れず、日頃の勧誘活動と相侯って、慢性の睡眠不足に悩まされました。会社に遅刻や突然の有休を取ったりと、やればやるほど経済的にも肉体的にも支障をきたしていきましたが、邪教の洗脳とは恐ろしいもので、これもすべて広宣流布のため、成仏のためなのだと耐えていました。他の拠点責任者の中に、相次ぐ深夜の入信勤行の攻勢に夜逃げ同然に去ってしまった人が、私の知る限りでも3人程いました。

 今思えば、どれも血脈の切れた本尊の害毒が原因だったと思います。魔の入った本尊は、正常な感覚を失わせます。勧誘のためならすべてを犠牲にし、無理な活動から組織ぐるみで借金を重ねる組織もありました。このような状態でも、罰や無間地獄という呪縛に縛られ、生活はすべて顕正会一色とされ、会に対して疑問を抱けないようにマインドコントロールされていきます。


 しかし、法華講員と対論をすると、いつも釈然としない気持ちが残るのです。いくら一方的に顕正会の正当性を訴えても、客観性がなければ破折もできないと思い、今まで浅井会長を中心として法門を見ていましたが、初めてそのフィルターを外して、客観的に見てみようと思いました。インターネット等を通じていろいろと調べたところ、御本尊の件や戒壇論も含め、顕正会の理論はもう破綻していると認めざるをえませんでした。「時間の無駄だから法論は回避せよ」との幹部からの指示の理由が判り、それまでの疑問が氷解し、顕正会はただの新興宗教でしかないことが判明していきました。そして、顕正会はもう日蓮正宗には戻れないだろうと思わざるをえませんでした。

 国立戒壇論と12年間やっていた固執により、なかなか踏ん切りがつきませんでしたが、法義上の誤りを知りながら支隊長として指揮を執ることに、ついに耐え切れなくなり、ようやく観念して江村さんに電話をしました。今までの非礼を詫びて素直に話を聞こうと、妻と共に大宣寺に何度か連れて行ってもらいました。お寺の方々の様子や、御住職・菅野日龍御尊能化、大竹副講頭からお話を伺う中、浅井会長に植え付けられてきた誤解や偏見がなくなりました。そして、意を決して顕正会での役職の辞退を上長に申し出ましたが、「役職を降ろしたら退転するのだろう」と断られました。ならば強行突破との思いで、一切の連絡を遮断しました。非礼だとは思いましたが、独裁国家からの亡命にも似た気持ちでした。

 その中、私を心配して、支隊員であり班長だった細沼さんとその班員の茂木さんが訪ねてくれました。私が顕正会の誤りを破折していくと、たちまちに動執生疑を起こし、その晩二人は眠れなかったそうです。そして妻と細沼さんと茂木さんをお寺にお連れして、御住職様に折伏していただいたところ、素直に決心し、私を含めた全員で御授戒を受けることが叶いました。ようやくの思いで正法に縁することができ、長年心を覆い尽くしていた雲が、一気に晴れる思いでした。その後、上長と話しましたが法義上の話はほとんどできず、学会による宗門誹誘を踏襲しただけの浅井会長の受け売り宗門誹謗や、「貴様は無間地獄へ堕ちる」と連発され、情けなくなりました。

 そしてたった一本の電話により除名が告げられました。上長から、これで貴様は無間地獄確定だと言われ、一方的に電話を切られました。除名の理由は、「広宣流布の暁に建立する御遺命の本門寺の戒壇に対して、義はともかくとして何故『国立戒壇』の名称の用否に拘(こだわ)る必要があるのか」と私が述べ、「国立戒壇」という言葉の要否だけを論じたことに対して、なぜかそれが御遺命否定とみなされました。これが顕正会の実態でした。国家を救うなどと表では嘯きながら、無慈悲な組織の実態を最後に見せてもらい、長かった顕正会の呪縛がようやく解けました。このことを御住職様にご報告申し上げたところ、「除名になったのか。よかったじゃないか」と喜んでくださいました。


 そして12年間、夢にまで見た登山が叶いました。大石寺に足を踏み入れ、山内に一歩一歩足を進めると、ようやく正法にたどり着いた感激は、言葉に尽くせませんでした。すばらしい山内を見学させていただいた後、御開扉を受け、本門戒壇の大御本尊様と御法主上人猊下を直に拝したときには、いろいろな思いが一気にこみ上げ、有り難さと申し訳なさで胸が一杯となりました。そして帰りに書籍類をたくさん買い込みました。比べるのも恐れ多いのですが、書籍類の内容の充実、深さ、判り易さは、顕正会のそれとは、当たり前ながら全く比較にならず、初歩的なことや基本的な事柄も、法華講に入って初めて知ったことが多々あります。

 今は、かつての苦悩に沈んだ生活から開放され、妻共々、正法に浴せる生活に感謝の思いで一杯です。以前は、朝が来ることがとても重く苦しく、なかなか布団から出られませんでしたが、御授戒を受けてからは、平日は五時きっかりに起きることができ、御給仕を申し上げ、歓喜の中、五座の勤行を申し上げ、御書の数ページを拝読してから出勤しています。以前は、朝は定時ギリギリに会社に駆け込み、「朝は遅く、帰りは早い」などと椰揄され、仕事上のミスを連発していました。しかし、今は30分前には出社し、落ち着いて意欲的に仕事に取り組めるようになりました。そして、常にイライラしっ放しだった気持ちも、驚く程、穏やかになった気がします。回り道をしましたが、正法に巡り合えた感激は言葉に尽くせぬ有り難さです。

 また、肝心の折伏ですが、細沼さんと共に顕正会時代の同志を折伏していたとき、今は私や柿沼さんと会うだけで、何らかの処分があると脅されていることを聞きました。しかし、例え何年かかろうと正法に縁させるべく御祈念申し上げ、かつての同志を折伏しきらんと決意しています。申し訳なくもたいへんな罪障を積んでしまいましたが、下種三宝様に心から懺悔申し上げ、自身の罪障消滅をかけて折伏の列に連なり、「破邪顕正の年」の決意とさせていただきます。
 

体験発表  投稿者:T424  投稿日:2006年 5月28日(日)22時34分36秒
  秋田布教区広布推進会(平成18年2月19日)での体験発表です。入信以来の、両親への折伏の内容です。
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 体験発表
    妙華寺支部 松本雄太

 皆様、広布推進会参加、ご苦労様です。本日は、体験発表の場を頂き、誠に拙いものではありますが、私の両親が入信するまでの体験をお話します。それにはかなり遡りますが、私の入信から話を始めたいと思います。

 20歳で漫画家を目指し上京した私は、当時創価学会員であった友人から折伏を受けました。幸いだったのは、学会教義ではなく日蓮正宗のお話を聞けたことです。
 平成2年11月18日、21歳のとき、東京杉並区の仏乗寺様にて御受戒を受けました。私はそのことを誰にも言いませんでしたが、ある日、両親がアパートに来たのです。母は、部屋の片隅のお厨子と鶴丸の仏具を見て、
「これが何だか分かっているのか、返してきなさい!」
と言い始めました。当然といえば当然で、地元の親族には創価学会員がおり、また、父母の職場にも同様にいました。そして、それらの人々は金銭・家庭・仕事面・男女関係等それぞれに問題を起こしていました。また、私は一人息子で跡取りです。代々の宗教がありながら、しかも相談もなく…なぜ?!と聞かれ、返す言葉がありません。それでも日蓮正宗が正しければ、自分が思い悩んできた、生きることへの空しさや死への恐怖がなくなるかも知れないというかすかな希望がありました。やっとのことで、
「せっかく自分の意志で始めたことだから、もう少し続けさせてくれないか?」
とだけ、頼みました。両親は渋々承知してくれました。

 平成3年、私はこの年、創価学会を抜け、法華講へと迎えていただきました。
 両親に、脱会しお寺についたことを話すと、「良かった」と喜んでくれました。学会を辞めたこと、また、お寺という言葉が、日蓮正宗を少し身近なものに感じさせたのでしょう。両親だけではなく、学会以外の親族も話を聞くなり「あ〜、それは良かった」と口々に言ったそうです。

 そのうち、私にも自分の進路を具体的に考える時がやって来ました。秋田に帰り、絵が好きだった私は当時の秋田市立美術工芸専門学校でデザインを学ぶことに決めました。こうして平成4年春、私は移籍という形でこの妙華寺に迎えていただくことになりました。
 この機会に、より深くこの信心を学ぼうと思い、出られる行事には全て出席しようと決めました。この頃は、各地の末寺で法華講支部の結成が盛んに行われ、青年部の私は、まず信心に身体を動かすことを学びました。そして青年というだけで、先輩方にもいろいろと面倒を見ていただきました。そこには、かつて自分が渇望しながら得られなかった、家庭の温かさがあり、何としても、自分の家庭がこうなって欲しい、と思いました。家族の名誉のために言えば、決して両親が冷たかったわけではありませんが、私を含めて、お互いに思い通りに行かない愚痴の心を抱え、ぶつかってみたり、あるいは避けてみたりを繰り返し苦しんでいたように思います。

 あるとき、私の父方の祖母が母と一緒に私のアパートに来て泊まりました。私が夕の勤行を始めると、祖母は私の後ろに来て、驚いたことに御経本もなしに、方便品・寿量品を一緒に読み始めました。「私も昔やっていたよ」と言います。あとで母から聞くと、私が二歳のときに亡くなった祖父と一緒に、一時期だけ学会で信心したらしいのですが、祖父の死後、家族や親族の大反対に遭い、御本尊様も手放してしまったそうです。祖母は、言うことを聞くだけで、何も言わない人でした。そんな祖母が秋田への訪問から2ヵ月後に亡くなりました。喪主は父であり、浄土真宗の葬儀が執り行われました。私が出来るのは、お塔婆供養をすることと、お題目をあげることだけでした。
 盂蘭盆御書に「目連尊者が法華経を信じまいらせし大善は、我が身仏になるのみならず、父母仏になり給ふ。上七代下七代、上無量生下無量生の父母等存外に仏となり給ふ。」とあります。この御金言の通りの功徳を以って、祖父母に報い、両親を折伏したいと思い、まず私自身が不退転の信心をしようと決心しました。私はその後、妙華寺支部・副青年部長の責をいただき、連絡や家庭訪問などもするようになりました。元々、どうしようもない引っ込み思案の私でしたが、お世話になった壮年・婦人の皆さんの信心をぜひ若い人に継いでいって欲しいとの思いを勇気に代えました。それでも弱気になったときは、先輩方が力強く励ましてくれました。

 しかし、私の思いとは裏腹に、活動をすればするほど、両親の態度は頑なになりました。「せっかく脱会したのに、これでは学会と同じではないか、いや、学会のとき以上に夢中になっている」と、心配したようです。父は、代々の宗教を変える気はなく、話のたびに席を立ったり、ときには、「家の宗教を継がないなら出て行け」などと言う事もありました。母は、話は聞いてくれるものの、「他宗のことを邪教扱いするのは良くない。」「この信心が良いのはわかったが、日蓮正宗だけが正しいとは思えない。」と言い張り、話が進みません。しかし、何とか理解しようと耳を傾けてくれたのも母でした。私は、両親が入信してからも嘘偽りの無いように、安易な勧誘を戒め、一貫して折伏に努めました。「親子の縁を切る」と言われたなら、本当に縁を切られる心の準備をしようと思いました。この信心にはそれほどの重さがあると感じていたからです。しかし、縁が切れても親子は親子、私が折伏しなければ誰がするのか、と何度も自分に言い聞かせました。

 平成9年9月、私は体調を崩したのがきっかけで、秋田で3年半勤めた会社を辞め、大館市の実家へ帰りました。しかし、妙華寺の青年部活動をこのままにしては、悔いが残ります。何とか続けたいと思った私は戸高御住職にお話しして、行事や活動予定日には、大館から片道2時間を通うという生活を続けました。実家に帰ってからは、信心が原因で何度も喧嘩をしましたが、両親は、何があっても私にこの信心を止めさせることは出来ないとわかり、なおかつこの信心があるおかげで私が前向きに生きるようになったと感じて、少し考えが変わったようです。

 平成10年の客殿落慶法要・10万総登山は仕事がないまま迎えることとなってしまいましたが、さらにその後一年、私は全く仕事には就けませんでした。それは私の仕事の探し方が問題でした。信心活動のために仕事を選んでいたのですが、不景気の折、そんなことでは働けるはずがありません。
 今思えば、私はこのとき、2つの慢心を起こしていたと思います。1つは、信心をしようとしない両親の言うことが、正しいにも拘らず素直に聞けないのです。もう1つは、御本尊様が示してくださることを素直に受け止めず、ただ自分の思いだけで物事を進めるような傾向があったことです。これでは御本尊様を拝みながら自分の心を拝んでいるようなものです。そのためか、就職はしたものの、その結果は惨々たるものでした。余りに長くなるので割愛しますが、その問題が一段落した後、両親に妙華寺まで送ってもらい、戸高御住職にも厳しく御指導をいただきました。私の父母について「素晴らしいご両親じゃないか」とのお言葉に私は顔を上げることが出来ませんでした。菊地講頭からも「親孝行しろ」と言われ、涙が止まりませんでした。

 その後は両親の勧めるままに、大館市の老人ホームでのボランティアをし、介護の現場を学びました。私が介護の仕事に就いて安定することは両親の願いでした。
 ある日、両親が、青森県八戸市の老人ホームの求人の話を持って来ました。両親の知り合いの方がそこの関係者であったため聞いてもらったところ、ちょうど男性職員を一人募集中だ、とのことで入社試験を受けるように勧められました。悩みましたが、今まで、自分の我を通したことは全て失敗してきました。それならば、せめて今度は親孝行をしよう、と入社試験を受けました。結果、採用され、私は晴れて八戸市に就職が決まりました。それにしても、また秋田からは遠くなってしまいます。何とか青年部の活動に差し障りが無いよう、青年部の仲間や、支部の皆さんにお願いするしかありませんでした。八戸から秋田までは、高速を使っても片道約4時間です。簡単に通うことも出来ません。
 平成14年の30万総登山・奉安堂落慶法要には、八戸から合流しました。

 しかし素晴らしい登山の思い出とは裏腹に、私は両親のことが気がかりでした。私の就職以来、家の中は良い雰囲気になっていましたが、意外と信心について話すきっかけがなく、たまに話しても、以前と変わらない反応にガックリしたりしました。ふと考えたのですが、両親が信心しないまま亡くなったら、私は将来、そのことを子供に何と言うでしょう。「お前のおじいさん、おばあさんは信仰に理解があって、また世間的にも素晴らしい人だったよ。でも、最後までついにこの信心をしなかったんだ」などと言うのでしょうか?それだけは嫌です。何とか大聖人様がおっしゃるところの一番の親孝行を果たしたい!それを考えると居ても立ってもいられなくなり、唱題を始めました。夜も眠れません。心を落ち着けるためにはただ1時間、2時間と、唱題を重ねるだけでした。

 そんな中、八戸に来てちょうど二年目の頃、私はひどいカゼで寝込んでしまい、あまりの苦しさに両親に電話で助けを求めました。起きることも出来ない私に見かねた母が、何か悩みでもあるのか、今一番望んでいることは何だ、と聞くので、私は「家族がこの信心で一つになることだ」と答えました。思うに、そのとき初めて素直に私の気持ちが伝わった気がしました。父も前向きに動くことを考えてくれたようです。このときから今まで動かなかったものが大きく動き出しました。母は、祖父母が信心していたことに触れ、「私たちは、日蓮正宗の信心に変わるのではなく、日蓮正宗に戻るのかも知れないね」と父に言ったそうです。

 その年の6月に、私は念願の仏壇を求め、御本尊様に御供養することが出来ました。このとき、両親が、自分たちもこれから信心するという前提で、資金を少し補助してくれました。この仏壇の御遷座式には、戸高御住職に遠路お出で頂き、また両親にも同席してもらうことが出来ました。
 さらに、父は自ら進んで、親族に我が家が日蓮正宗に改宗する、ということを話してくれました。最初に話したとおり、うちは跡取りなので、これは冠婚葬祭を日蓮正宗でやるという意味になります。それでも、今までどおりお墓を見てくれるのなら別に構わないとのことで反対はされませんでした。むしろ、「家族は同じ信心で一つがいいよ」「雄太君もそのほうが幸せだ」と、言われたそうです。
 こうして、平成16年9月28日、悲願であった両親の御受戒を妙華寺でしていただくことが出来ました。普段の参詣に所属寺院の妙華寺は遠いため、大館市の法種院様でお世話になっています。そして、3ヵ月後の12月28日にはついに、御本尊送りをしていただくことが出来ました。私が初めて御受戒を受けてからは14年、法華講に移ってから13年もの時が流れていました。

 昨年6月29日には初めて家族そろって夏期講習会登山に参加しました。両親はこの年の支部登山にも参加し、より一層本山に親しんで来たようで、仕事で行けなかった私は羨ましくその話を聞きました。
 入信して一番変わったのは父だと思います。現在は積極的に参詣し、また普段の生活の中でも前向きになってくれたことで、母も助けられているようです。
 2人とも、次の平成21年・立正安国論・正義顕揚750年には、皆様と共に元気で家族一緒に登山できますよう、末永く健康でいて欲しいと願っています。
 まだまだこれからの家族でありますが、皆様よろしくお願いいたします。
 

妙観講員の方の体験です。  投稿者:プリティピッグ  投稿日:2006年 5月18日(木)11時37分38秒
  元顕正会員で今は、妙観講で信心しているかたの体験です。この前少しかきましたが、顕正会員を折伏しに相模会館へ行ったら、某隊長がなぜか警察へ駆け込んでしまったとのこと。
その当事者の方の感想です。
この方は、一年前に、顕正会の本部会館でも理不尽な目にあい、顕正新聞にも掲載されてしまった(写真入りで)方です。

顕正会の実態がわかる一例かと思います。

以下に転記します。本人の了解は得ています。


同じ話題で何回も書くと、段々鼻についてくるだろうから、特に動きがない限り最後にしたいと思うけど、◎◎隊長事件にまつわる色々なお話である。

■◎◎隊長があるJR駅前交番に駆け込んで、「私」は一瞬にして「被疑者」になったわけだけど、正直な話、最初は事実はきちんと主張しよう、と決意したのと同時に、心の片隅に「逮捕されたら、仕事もクビになって、収入源が無くなるから、困るなあ。」などという気持ちが起こってしまったのも事実である。途中で部長の叱咤激励を戴いて、それ以降は肚が固まった訳であるが、こんなことでは、臨終の際に最期の一瞬まで余念なく唱題することなど無理である。自分の信心の薄さを実感した出来事であった。

■私は部長の激励をいただいて大変喜び、かつ安心したのだけど、対応していた警察官は、
「君は組織に裏切られた。君を助けるどころか、『訴えても結構』などと言っている。誰も助けてくれないんだ。◎◎さん(*隊長)を怯えさせている事実はあるのだから、一筆書いたらどうか。」
と勧めた。
「部長の言葉の意味は違うんだけど…」
と思ったけど、口にしてもわかってもらえないだろうし、怒られそうなので止めた。

■対応した警察官は、どちらかというと「熱い」体育会系の人であった。◎◎隊長が怯えて駆け込んで、指差す先には私が悪怯れもせず立っていた訳だから、警察官から見たら「とんでもない男」に見えたのかもしれない。

■事実を否認し、反省も一切していないということで、警察署に移動して事情聴取を受けることになったが、その前に身体・所持品検査をすることになった。私は事実は一切否定するが、その他は警察に協力するつもりだったから、「身体検査をさせてください。」と言われた時も、「判りました。」とさっと立ち上がった。「危険物などは持っていませんか?」と言われたので、顕正会員にもらった浅井の諫暁書(*彗星じゃなく夕日の表紙のやつ)を出そうと思ったけど、内輪ネタでうけないと思ったし、その「熱い」警察官さんが怒りそうだったので、とりやめた。
取り止めたけど、ニヤニヤしていたら、別の警察官に、
「あなた、ご自分の立場がわかっているんですか?」
と注意された。
「はいっ、よくわかっているつもりです!」
と元気よく答えたら、あきれたのか向こうをむいてしまった。

■警察署で取り調べを受け、「上申書」を書いた。署名捺印の上提出したけど、コピーが欲しかったのでダメモトで「あつかましいお願いで恐縮ですが、コピーを戴けませんか?」とお願いしたら、ホントにあつかましかったようで、その「熱い」警察官は
「警察をナメとるんかー!」
と激怒し、置いてあったパイプ椅子を蹴り上げた。
自分でもあつかましいかな、と思っていたので素直に謝ると、その「熱い」警察官は、落ち着いた口調に戻って、
「今自分で書いたことだから、覚えてるでしょう。」
と言って、私が自分のノートに忘れないように書き写していることについては、何も言わず黙っていた。顔があさっての方向をむいていたから、気が付かなかった(?)のかもしれない。その「熱い」警察官さんは、私のことは気に入らなかったと思う。返事は明瞭だけど、事実は一切否定して反省もしない。◎◎隊長が怯えた様子で交番に駆け込んだのを見て、警察官としての「正義感」が燃えて、熱くなったのだと思う。

■警察からは実家の家族に連絡が行っていたようである。警察署を出る時、警察官がやってきて、「実はさきほどご実家に連絡させて戴いたのですが、お母様が出られて、色々誤解があったようで…どうぞよろしくお伝えください。」と言われた。私も、「はあ、判りました」という返事をしたのだが、母親に後で聞いてみたら、「最初はサギの電話だと思った」との事で、かなり怪しんだ対応をとったようである。どんなことを言ったのか判らないが、私の母親だけにかなりきついことを言ったのかもしれない。

■警察署を出て、電話で話した時、てっきり、
「そんな信仰、止めてしまいなさい!」
と言われると思って、返事も準備していたのだけど、母は、
「自分の信じた道なのだから、貫きなさい。」
と言ってきた。
「貫くけど、そのうち学会か顕正会の謀略で、逮捕されるかもよ。」
と答えたら、母はなんと、
「いつかあるかもしれないね。その時慌てないように、妙観講本部の電話番号と、この前いらっしゃった部長さん(*御本尊下付の折、拙宅に寄られた)の名前をメモに残して欲しい。」
と言ってきた。
母も覚悟してくれているようであるが、この会話、どうやら母の「一本勝ち」のようである。

私が信仰することはようやく理解してくれているようだが、母自身の入信となるとまだまだなので、一日も早く父母を正法につかせなければならないと思っている。

■◎◎隊長事件の後、ゴールデンウイークが明けたら、少しずつ生活上に変化が現われてきた。私は会社員なので、普段の日は仕事をしているので、仕事に関連した変化が多いのであるが、休みが明けたら急に、まわりの人々が何かと手助けをしてくれるようになったのである。私の仕事は色々とコーディネートして、他の部門や業者に動いてもらわなければならないため、一日中調整のために自分で飛び回っているのであるが、事件の後、調整のために電話をしようとしたら、先方から、
「○○の件ですが、以前おっしゃっていた内容にそうように、準備させて戴いたのですが、よろしいでしょうか?」
と電話がかかってきた。
これ一例ならたまたまであるが、ゴールデンウィーク明け以降、調整が必要なことは悉く準備が整っていて、私は
「では、よろしくお願いします。」
とお願いするだけで良い状態になっている。
その分、他の重要な仕事に力を注ぐことができるようになった。

また、ゴールデンウィーク明けの月曜日に、専務がやってきて、
「いつも頑張っているね、落ち着いたら、一度メシにでも行こう。」
と肩をたたかれた。

その後、先輩の女性の課長と雑談していたら、
「早く出世して、私と▲▲さん(男性の先輩の課長)の上に立つようになってください。」
と激励された。
大変感激した。

私は、顕正会時代に、「折伏」の故ではなく、勤務態度が極悪になっていたことから、評定を下げられ、数年下の年次の人達のレベルと同じ評価になり、クビ寸前になってしまった。
(同期が先日明かしてくれたところによると、当時、「国が危ない」、「二大氷山が…」などと、仕事もロクにせずに叫んでいた私に、「国も危ないけど、その前にお前(の地位)が危ないだろう」とか、「自分の仕事も出来ないくせに、何を言ってるんだ」という悪口が飛びかっていたんだそうである。日蓮正宗に帰伏して、「法を説く故の難は法難であるが、自らの不注意で招いた難は横難である」と教えて戴いた。私の体験は、二重の意味で横難である)。

日蓮正宗に帰伏して、生活態度を改めたからと言って、直ちに評判が回復する訳もなく、ようやく中の上位のレベルに評価が戻ったかなあ、と感じていたのであるが、専務とこの先輩の課長の言葉は、そのような私にとっては大変うれしい言葉であった。
また、顕正会時代には私とは顔を合わせるのすら嫌な素振りを見せていた後輩たち(特に女性には嫌われていたと思う)は、最近急に何かと仕事を手伝ってくれるようになった。

■顕正会時代に勧誘してしまい、未だに避けている人もたくさんいるが、日蓮正宗の信仰を根本に、仕事の上でも全力を尽くして行きたいと思う。

■このように考えると、ある意味で◎◎隊長には感謝しなければならないのかもしれない。毎朝・毎晩の勤行では、学会・顕正会員の一日も早い帰伏を祈念申し上げているのだが、◎◎隊長についても、早く正法につけるよう、あわせて祈念して行きたいと思う。

■冒頭の部分は朝書き始めて、電車での移動や休憩時間に書き込んでいたのだが、夜になってしまった。読み返してみたら、かなりの長文でまとまりの無い文章になってしまっているけど、どうかお許し戴きたいと思う。
 

法難堪え忍び顕われた実証  投稿者:埼玉県出身I@札幌  投稿日:2006年 1月28日(土)01時50分29秒
  妙観講 K・Hさんの体験です。

 私は、平成2年5月に友人の紹介で日蓮正宗に入信しました。入信当時は学生でしたが、将来の目標もなく、いい加減な人生観で生きていました。
 バリ島に長期滞在して、現地人の友人達とともに、真面目そうな日本人観光客を相手に、ぼったくりの商売をしていた時期もありました。
 そのような私でしたから、なかなか真面目に信仰することができず、会合に連れていかれても、後ろの方でタバコをふかしていたり、本当にふざけた態度で信仰をしていました。

 ところが、入信して半年が過ぎた平成2年11月、創価学会間題が勃発したのです。
 講中あげて学会員への再折伏が展開されるなか、私も、何がなんだかわからないまま、その渦に巻き込まれるように、折伏に加わっていきました。
 とくに大阪の折伏では、大勢の学会員に取り囲まれたり、尾行されたりということが続きましたが、先輩方と折伏に回らせていただくことが本当に楽しく、信心の歓喜がどんどん湧き上がってきたのでした。
 そして、平成9年11月全創価学会員が日蓮正宗の信徒資格を失ったことに伴い、それまで数年間の、創価学会員を優先した折伏から、学会員を含むあらゆる謗法者を折伏する方針へと変わりました。

 入信以来、学会員への折伏ばかりで、周囲の人々の折伏など、ほとんどしてこなかった私は、たいへん戸惑いました。
 どのように進めたらよいのか、どう話したらよいのか、全くわからない状況でしたが、先輩方の体験を伺い、罪障消滅をして幸福になっていく道は、折伏以外にないとわかりました。
 折伏をして、周囲の人々から悪口を言われ、いじめられる、そのことで謗法の罪障を消滅させていただくことができる。難に遭われた先輩方は、その後、皆、大功徳をいただいていることを教えていただきました。
 そして、講中伝統の折伏のあり方を、機会あるごとに教えていただき、少しずつではありますが、折伏の確定を取っていくことができるようになったのです。
 それは、「嫌われたらどうしよう」とか、「怒ってしまうのではないか」という臆病な気持ちとの闘いでしたが、そのつどに御題目を唱え「日蓮が弟子等は臆病にては叶ふべからず」(御書1109頁)との大聖人様の御金言を思い起こして、折伏をしていきました。

 最初に折伏した学生時代の友人達は、皆、反対しバカにしてきましたが、その一方で、私の方は本当に強い生命力が涌いてくるのを感じ、難を受けることで過去以来の罪障が消滅する、ということが心から確信でき、たいへん有り難く思いました。
 そこで、今度は、なかなかできなかった会社の同僚・上司も折伏していくことにしました。
 そして一人、また一人と折伏を進めていったところ、私が宗教の勧誘をしている、という噂が杜内に一気に広まり、完全に孤立した状態となったのです。
 仕事のこと以外は、誰からも声をかけてもらえなくなり、一番仲の良かった同僚からさえも、「私よりも仕事ができないくせに、何が宗教だ」とたいへんバカにされ、避けられるようになりました。

 そうした中、節分の日に、社長の好意ということで、全社員に、神社で祈祷された福豆が配られることになりました。
 今まで折伏しなければと思いながらも、社長だけはできなかったのですが、これを見過ごしたなら私自身が謗法与同の罪を作ってしまいます。御本尊様に「臆病な私にも折伏をさせてください」とおすがりして祈り、仕事が終わった後、社長の所へ行きました。
 社長は、「不景気な世の中だから縁起担ぎに配ったものだ」と言っていましたが、私が、「そのような宗教こそ不幸の根元です」と話し始めると、ヒステリックになって、私が返した豆を投げつけてきました。
 そして「君が宗教の勧誘をしていることは社内で大問題になっている、どうなるか覚えていろ」と言ってきたのです。

 次の日より、社員全員に、私から宗教の話を聞いたか、どんな話だったか、という調査が行なわれました。そして、その数日後、上司より呼ばれ、部署の変更を申し渡されたのです。
 私の勤める会社は、印刷会社で、私はコンピューターのオペレーターとして、主に編集作業をしていたのですが、全く職種の異なる工場へと回されることになりました。そこは、男性ばかりの職場で力仕事しかありません。
 上司は、私が移動の理由を尋ねても、一切答えず、「嫌なら辞めてもらってかまわない」と、自主退職を迫ってきました。
 しかし、ここで自ら辞めてしまったら、折伏したことが誤りになってしまいます。どんなに辛い思いをしても、それに堪えて勤めていこう、と決意しました。

 会社に行っても、仕事らしい仕事もないので、掃除をしたりして時間を過ごし、定時が来るのを待つ日が続きました。仕事のできないことが、こんなに辛いものだとは、思ってもみませんでしたが、大聖人様の御金言を思い、また先輩に励まされながら、貫くことができました。

 そのような状態が2年あまり続き、平成12年6月に、もとの部署に戻ることができました。しかし、風あたりが強いことに変りはありませんでした。
 また、同じ頃、家族・親戚を折伏するなか、何度も父に殴られたり、ヒステリックになった母から「信仰を続けるなら出ていけ」とわれることがたび重なっていました。
 ある日、私の部屋に、一通の手紙が置かれていました。「宗教を止めないなら、今年中に家を出ていくように」との母からの最後通告でした。私は支部長・部長に御指導いただき、家を出ることにしました。

 信仰して幸せな生活ができるどころか、どんどん厳しい状況に陥っていく信心惰弱な私は、時には迷いを生じ、愚痴や嘆きの心を起こしてしまうこともありました。
 そんな私を、いつも部長が励ましてくださいました。そして、私自身のもつ宿業がこの事態を招いていること、末法に生を受けた我々には、それだけ重い謗法の罪障があって堕地獄が定まっていること、それを免れ言るために折伏していかなくてはならないこと等々を、繰り返し繰り返し、教えてくださったのです。

 部長の励ましで立ち直ることのできた私が、家を出て引っ越してきた大阪は、「常勝関西」と呼ばれるほど、学会員の多い所でしたので、周囲の謗法者と併せて、学会員の折伏も精いっぱいさせていただきました。
 なかなか、話のできる人が見つからず、6時間、7時間と電話をかけ続けることもありましたが、これでもか、これでもかと、一軒一軒、執念深くあたっていきました。
 そのような中、今年は宗旨建立750年の佳節の年にあたり、講中においては、毎月200所帯の折伏を果たして、平成14年度中に2万の陣容に成長し、猊下様にお応えしよう、との方針が打ち出されました。
 そして、元朝勤行の後、理境坊において開かれた新春幹部会の席上、大草講頭は折伏をなす3つの秘訣を教えてくださったのです。
一、何としても折伏をさせていただきたい、という強い願いを起こす
二、寸暇を惜しんで折伏を実行する。
三、誓願心が蘇ってくるまで唱題を重ねていく。と。講頭自ら、これを実践し、壁を突破してこられたとのことでした。
 私は、「これだ!」との思いで、すぐに、この3項目を実践していきました。
 その結果、三障四魔も起こってきましたが、折伏を続けていく中で、入信・入講する人が現われ、3月をもって、班の年間折伏目標を達成させていただくことができました。

 ると、その直後、社内での私の立場が一変してしまったのです。というのも、4月の始めに、会杜の慰労会があったのですが、その時、社長の甥にあたり、次期の我が社を担っていく人と話す機会がありました。
 その中で、いろいろと仕事の話をした結果、「辞めてもらっては困る存在だ」とか「会社の力になってほしい」「昇給についても僕がアピールしてあげるから」など、大変よい評価をいただき、さらに、今後に期待していただけるようにもなったのです。
 その後、やりがいのある仕事、大きな仕事も任せてもらえるようになり、気付いてみると、3年前と比べて、かえって仕事の内容も充実し、待遇もよくなっていたのでした。

 先日も、とんでもない事で誉められました。私は、折伏や会合参加、拠点の警備等々、仏道修行に時間を使いたいので、定時になると、いつも、いの一番に退社していたのですが、そのことが「残業代の経費節減に貢献している」と評価されてしまったのです。思ってもみなかったことに、驚いてしまいました。

 大聖人様の御金言に「法華経を信ずる人は冬のごとし、冬は必ず春となる」(御書832頁)とあります。
 私は、折伏をしたことで工場に廻されたり、家を出されたりと、いったんは本当に辛い思いをしました。
 しかし、その時期を経て、少しでも罪障を消滅し、こうして本当に恵まれた状況へと変わることができました。「本当に御本尊様は有り難い」という思いでいっぱいです。

 一方、折伏に反対して仏法に背いた人達は、会社を急に辞めてしまったり、仕事上で大きなミスを立て続けに起こしてしまったりと、分々に罰を被っています。
 この体験を忘れることなく、まだまだ、信心惰弱な私ではありますが、御本尊様の絶対の御力を信じて、精いっぱいの御奉公をさせていただくことを決意いたします。
 

リウマチが完治した体験  投稿者:埼玉県出身I@札幌  投稿日:2005年11月29日(火)13時46分1秒
   「業病のリウマチが数ケ月で完治」 妙観講 N・Mさん

 私は昭和62年姉の折伏によって入信しました。それ以来数多くの功徳を御本尊様から頂戴いたしました。
 そんな私の身に昨年8月、厳しい病気が突然襲ってきたのです。関節リウマチという恐ろしい業病でした。
 もともと健康面には自信があったこともあり、当初はあまりの衝撃に、悲嘆に暮れてしまいましたが、御本尊様の御力で発病からわずか数ヶ月で完治することができました。そのことについて、発表させていただきます。

 8月に入った頃より、朝方、眠りから覚めると、足全体に強張りをおぼえるようになり、絶えず違和感がありました。
 ある日、建築業を営む主人とともに、伊勢布教所の壁紙などの内装修復工事を、ご奉仕でさせていただきました。
 その夜のことです。強張っていた手足にしびれを感じたと思ったら、今度はじわじわと腫れだしたのです。
 私は、工事の際に手足を使いすぎたためかと思ったのですが、念のために伊勢市の病院に二軒ほど行ってみました。しかし、どちらでも、原因が不明だとのことでした。

 さらに、日を追うごとに腫れがひどくなり、ついに靴も履けなくなったものですから、とめどない不安が起こり、慌てて大阪の大学病院に駆け込みました。
 病院に向かう前、私の脳裏には「ひょっとしたら、リウマチかもしれない」との不安がよぎりました。案の定、医師の診断結果は、リウマチの可能性が高い、というものでした。
 リウマチという病気は、手や足の関節が腫れだし、激しい痛みを伴う膠原病の一種で、進行すると、手足の変形、歩行困難、そして、ついには寝たきりの生活になってしまう難病なのです。
「どうして、こんなことになるの。とにかく夢であってほしい」と、悲嘆に暮れてしまいました。
 支部長に電話して、この状況をお話しました。支部長は心配して、いろいろと励ましてくださいました。

 その際、「富木尼御前御返事」の「設ひ業病なりとも、法華経の御力たのもし」(御書955頁)との一節を引いて、「たとえ業病であったとしても、御本尊様の御力で、必ず乗り越えられる、と大聖人様がお約束してくださっているのだから、この御金言に身を任せ、不安や愚痴や嘆きを止めて、しっかり唱題をし、折伏をやりきっていこう」と御指導してくださいました。
 その時は、「絶対、大丈夫!絶対、治るのだ」と思ったのですが、靴が履けなくなった時よりも、さらに腫れてくる手足を見ると、信心の弱さ故に、「これからどうなるのだろう」と、また不安が先立ってくるのでした。

 その後、手足の状態はさらに悪化し、手首、足首はパンパンに腫れ上がり、足はまるでゾウのようになっていきました。階段の上り下りもままならず、勤行の時に正座もできない、一歳になろうとしている子供の寛太朗を抱くことすらできなくなってしまったのでした。
 これまで、病気というのに縁のなかった私が、このような姿になってしまい、奈落の底へ突き落とされたような心境で、御本尊様の御前で、何度か、とりとめもなく号泣してしまいました。

 そんなある日、明け方にとんでもない恐ろしい夢を見たのです。私の子供がマンホールに落ちてしまい、さらに、真っ暗闇の中へ吸い込まれるように落ちていき、さらに、さらに……と、それは筆舌に尽くしがたい光景でした。余りに鮮烈な夢だったものですから、ショックで目が覚めてしまいました。
 何故このような恐ろしい夢を見たのか訳がわからず、支部長に電話で伺ったところ、支部長はいとも明るく御指導してくださいました。

「そのような夢を見て、よかったね。末法に生まれ合わせた私達は、どんな人であっても、過去遠々劫からの深重な悪業を持っており、短い一生の中ですべての罪障を消すことができなければ、成仏できず、堕地獄は免れないのです。
 なのに、ほどほどの信仰をして、ほどほどの楽しい日々を過ごせ、見る夢がバラ色だったら、その人はそれで満足して、成仏できる信心を目指さなくなってしまいます。
 御本尊様が、今のままの信心ではダメだ、強盛な信仰に起ちなさい、と夢をとおして教えてくださった
のです。ありがたい夢じゃないですか」と、励ましてくださいました。
 私は、自分の信心の惰弱さを深くお詫びし、どこまでも、御本尊様を頼みの綱としてやっていこう、
と決意することができました。

 その後、わかったのですが、じつは、私の祖母も、生前、リウマチで苦しんでいたのでした。そのことについて、N部長は、私にはもともとリウマチで苦しまなければならない業があり、その業が、怨嫉謗法をきっかけに噴き出してきたのだろうと、御自身の体験を交えてお話してくださり、御本尊様にしっかり懺悔申し上げ、スッキリするまで祈っていくように、と言われました。
 私は、支部長、部長の御指導を実践していこうと、一旦二時間以上の唱題と、学会員への折伏を決意し、さっそく訪問折伏を実践していきました。

 さらに、今住んでいるマンションの住民を一軒ずつ回って、『正しい宗教のすすめ』を使って折伏していきました。
 近所の酒屋さん、両隣の家などにも、出向いて折伏しました。実家の父母や、嫁ぎ先の母にも、「心配しなくても、この御本尊様の信仰で必ず治してみせるから」と、御本尊様の功徳の偉大さを話すことができました。
 主人と子供と三人で、親戚の家にも折伏に回りました。行く先々で、いやな顔をされたり、ドアを閉められたり等と、反応は良いものではありませんでしたが、折伏をして悪口を言われることは当たり前、その一つひとつが罪障消滅になるのだからと思い、功徳を積みたい一心で折伏を実践してきました。
 学会員の折伏においても、電話を架けるところ、架けるところ、池田狂ばかりで、罵声を浴びせられることも度々でしたが、これで罪障がまたひとつ消えるのだと思うと反対に嬉しくなり、「悪口を言ってくれてありがとうと思うほどでした。

 また、会合や御登山にも積極的に参加し、当病平癒の御祈念もお願いしていきました。そのように実践する中、9月10日に再度検査があり、やはり慢性関節リウマチであると告げられました。
 しかし、その時には、必ず治る、という確信で、動揺することもなく、不安もまったくありませんでした。
 9月14日には、三十万登山で総本山に参詣し、大感激で帰ってきました。その頃からです。徐々にですが、手足の腫れが引きだしたのです。
 日一日と腫れが引き、短時間ですが、正座ができるようになった時には、言いようのない喜びを感じました。
 これこそ御本尊様の功徳であると、ありがたさと感激で、何度も何度も御本尊様に御礼申し上げました。

 10月7日、診察がありました。その頃には、私の手足は、ほとんど腫れが引いており、スリッパしか履けなかったのが、もとの靴が履けるほど良くなっておりました。その手足を見て、医師は本当に驚いていました。
 それにつけても、リウマチの場合、通常、激しい痛みが伴うのですが、私の場合は、最初から全くと言っていいほど、痛みがなかったのです。
 このことを考えますと、業によって発病はしたものの、その中でも厳然と御本尊様の御加護に浴していたことを確信いたしました。

 今では、元どおり、走ったり、階段の上り下りができたりと、病気になる前の生活状態に戻ることができました。正座も以前のように長時間できるようになりました。
 さらに、先日行なった血液検査では、完全に正常値に戻っていました。もし、信心をしていなかったら、今頃は、車イスか、寝たきりの生活を送っていたに違いありません。今は、本当にこのように生活できることが、ありがたくて仕方がありません。

 これよりは、御本尊様からいただいた御恩に報いるためにも、師匠・先輩のもと、自行化他にわたり精進していく決意です。ありがとうございました。

http://hw001.gate01.com/koribu/50mon50tou-top.html

 

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